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第51話 二人きりの初詣
高校三年生、一月。
窓ガラスを叩く冬の風は鋭く冷たく、玄関の扉を開けて外に出れば、ふっと吐く息が真っ白に染まる季節。
いよいよ、受験本番までもうあとわずかというところまで迫っていた。
先の見えない未来に対して、不安がないと言えば嘘になる。
それでも、これまでやるべきことはすべてやってきたという自負があった。
朝早く起きては単語帳を開き、夜は眠い目を擦りながら机に向かい、過去問と睨み合う日々。
模試の結果に一喜一憂し、時にはプレッシャーで押し潰されそうになりながらも。
二人で励まし合って積み重ねてきた時間は確かに自分たちの中に存在している。
だから今の心の中には、焦燥感や不安よりも、腹の底にすとんと落ちるような静かな覚悟の方が大きく占めていた。
元日の朝。
ぽかぽかと暖房が効いたリビングでは、ショウとリサがゆったりとした時間を過ごしていた。
リサのお腹は、ゆったりとしたマタニティウェアの上からでもはっきりと分かるくらい、だいぶ大きくなっている。
「あーあ、本当は私も一緒に行きたかったんだけどなー」
ソファに深く腰掛け、愛おしそうにお腹を撫でながらリサが少しだけ残念そうに唇を尖らせた。
「外は死ぬほど寒いし、三が日で人も多いんだから、今日は大人しくしてろ。……ほら、冷えるぞ」
隣に座るショウが、呆れたような口調ながらも極めて優しい手つきで、リサの膝に厚手の毛布をふわりと掛け直す。
「過保護なんだから」
「妊婦なんだから当然だろ」
そんな微笑ましい二人のやり取りを見て、リビングの入り口でコートを着込んでいたレオとケントは顔を見合わせて少し笑った。
賑やかな四人での初詣も楽しいけれど、リサの体調を最優先に考え、結局今年の初詣は二人だけで行くことになったのだ。
向かったのは、家から電車を乗り継いで数駅先のところにある、学業成就で有名な大きな神社だった。
玉砂利を踏む音が響く境内には、自分たちと同じような受験生らしい学生の姿も多い。
中には制服姿で来ている人もちらほらと見える。
「あ、水澄じゃん」
「ほんとだ。櫻井もいる」
手水舎で手を清めようとした時、知り合いのクラスメイトたちに何人か遭遇した。
「おー、お前らも祈願か?」「お互い頑張ろうな」と、笑いながら軽く挨拶を交わす。
ほんの少し前なら、彼らからはただの『仲の良い友達』として見られていただろう。
けれど今は違う。ひょんなことから、クラスメイトたちには自分たちが付き合っていることが知られてしまっているのだ。
だからといって、この人混みの中で堂々と手を繋いだり、恋人らしい振る舞いをしたりする勇気はレオにはまだない。
相変わらずそういうことには恥ずかしさが勝ってしまうし、ケントもレオの気持ちを尊重して無理強いは絶対にしない。
だから今日も、並んで歩く二人の距離は、友達と恋人のちょうど中間くらい。
歩くたびに手の甲が触れ合いそうになるけれど、あと数センチの隙間が埋まらない。
その絶妙でもどかしい距離感が、冷たい冬の空気の中でひどく甘酸っぱく感じられた。
まずは、本殿の脇で絵馬を書くことにした。
ずらりと並んだ絵馬掛けには、すでに無数の願い事がひしめき合っている。
『第一志望合格』『医学部合格』『共通テスト成功』『絶対に志望校に受かりますように』。
どれもこれも、受験生たちの切実な思いが込められたものばかりだ。
レオは冷えた手でペンを握り、少し悩んでから、木目の上に丁寧に文字を書き込んだ。
――第一志望に合格できますように
書き終えてふと隣を覗き込むと、ケントが迷いのない豪快な文字で何かを書き殴っていた。
――とにかく合格
そのあまりにストレートすぎる願い事に、レオは思わず吹き出してしまった。
「なにそれ、雑すぎない?」
「いいの。気持ちはちゃんと伝わるだろ」
「まあ、そうだけど……」
「あんまり長くゴチャゴチャ書くと、神様も読むの面倒そうだしさ」
「なにその理由?」
ケントの突拍子もない理論に、レオは声を上げて笑った。
張り詰めていた受験への緊張感が、ケントのおかげで少しだけほぐれていくのを感じた。
絵馬を掛け終え、今度は参拝の列へと並ぶ。
有名神社だけあって、本殿へと続く列は思った以上に長く、折り返して蛇行していた。
少しずつ、本当に少しずつ前へ進みながら、レオは冷たい風に肩をすくめてぽつりと呟いた。
「さっき絵馬で合格祈願したばっかりだけどさ」
「うん」
「このあと、神様の前で別のお願い事したら、やっぱり欲張りかな」
少しの躊躇いを含んだレオの問いに、ケントは即答した。
「平気だろ。全然余裕」
「そう? 怒られないかな」
「オレらより強欲な人間なんて、世の中にいっぱいいるって。神様も『はいはい、次ね』って感じで処理してるよ」
「……それは否定できないかも」
「だろ?」
神様も大変だな。
そんな罰当たりなことを考えながら、ケントの大きな背中の後ろに隠れるようにして風を避け、列が進むのを待つ。
やがて、ようやく二人の番が来た。
冷えた指先で財布から硬貨を取り出し、賽銭箱へと投げ入れる。
カラン、と澄んだ鈴の音を響かせ、深く二回お辞儀をしてから、胸の前で手を合わせた。
ゆっくりと目を閉じる。
(神様。ごめんなさい、欲張りな人間で)
心の中で、そっと語りかける。
(受験も大事です。ここまで頑張ってきたから、絶対に第一志望にも受かりたいです。でも……)
でも、それ以上に。
――ケントと、これからもずっと一緒にいられますように。
去年、初めてケントと初詣に来た時も同じ願いをした。
そして今も、その想いは全く変わっていない。
たぶん、これから先もずっと。
自分にとってこれが、何よりも優先される一番大切な願いなのだ。
参拝を終えたあと、二人は境内の端にあるお守り売り場へと向かった。
「買う?」
「買う。絶対買う」
そこは即決だった。
何せ今は、藁にもすがりたい受験生なのだから当然である。
色とりどりのお守りが並ぶ中から、二人とも同じ、紺色に金色の糸で『学業成就』と刺繍されたお守りを手に取った。
そして、巫女さんに渡そうとした時。
「あと、これもください」
ケントが、隣に並んでいた小さくて可愛らしい別のお守りを持ち上げた。
淡いピンク色の、『安産祈願』のお守り。
レオもすぐに意図を察して、深く頷いた。
「リサさんにだね」
「うん。ショウくん、たぶんこういうの買うの忘れそうだし」
「ふふ、確かに。じゃあ、これは二人からってことで」
お互いの財布から小銭を出し合い、安産祈願のお守りを買った。
家に帰って渡したら、きっとリサは目を細めて喜んでくれるだろう。
すべての用事を済ませ、神社の鳥居を出ようとした前。
ふと、前を歩いていたケントが立ち止まり、振り返った。
「レオ」
「ん? どうしたの?」
「これ」
そう言って、ケントはたった今自分が買ったばかりの学業成就のお守りを、レオの目の前に差し出した。
レオは不思議に思って、パチパチと瞬きをする。
「え?」
「交換しよ」
「……いや、全く同じお守りだけど」
「別にいいじゃん。オレは、レオが持ってたやつがいいの」
少し照れ臭そうに、けれど真っ直ぐな瞳で笑うケント。
その不器用な優しさが嬉しくて、レオも自分のお守りを差し出した。
指先が少しだけ触れ合い、お互いのお守りが持ち主を入れ替える。
同じ神社の、全く同じお守り。
普通に考えれば、交換することに何の意味もない。
でも、レオの手の中にあるお守りは、先ほどまでケントが握っていたせいか、ほんのりと温かかった。
不思議と、胸の奥がじんわりと熱くなる。
(これなら、絶対にいける)
レオは交換したお守りを、一番使っている参考書を入れた鞄のポケットへと大事にしまった。
きっとどんな高価なお守りよりも、ケントの体温が残るこれが心強い。
帰り道。
「そういえば、おみくじ引かなくていいの?」
駅に向かって歩きながら、ケントが不思議そうに聞いた。
レオはマフラーに顔を少し埋めながら、横に首を振った。
「いい」
「珍しいな。いつも引きたがるのに」
「だって、結果が良くても悪くても、なんか気になっちゃうから」
「確かに。大吉ならプレッシャーになるし、凶なら落ち込むしな」
「でしょ? だから、今は知らないままの方がいい」
レオは少しだけ前を歩くケントの横顔を見上げて、ふわりと笑った。
未来がどうなるかは、まだ誰にも分からない。
でも、今まで机に向かって積み重ねてきた確かな努力はある。
隣には、こうして同じ歩幅で歩いてくれる大好きなケントがいる。
帰る家には、ショウとリサが、温かい部屋で待っていてくれる。
今は、それだけで十分だった。
肌を刺すような冷たい冬の風が吹き抜ける。
けれど、その風の向こうには。
二人で笑い合える、暖かくて明るい春が、確かにすぐそこまで近付いていた。
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