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第52話 勝負の日

 高校三年生の、二月。  底冷えするような寒さが続く、冬の夜。  明日は、いよいよ本命大学の入試当日だった。  レオは、自分の部屋の机に向かい、最終確認を終えたところだった。  受験票。使い慣れた筆記用具。時間の狂いがない腕時計。家から会場までの交通経路と電車の時刻表。  全て、何度も確認した。忘れ物はない。準備は完璧だ。これ以上やるべきことはない。  だから、明日のためにもう寝るべきだった。  卓上時計を見ると、時刻は二十二時ちょうど。  部屋の電気を消し、冷たい布団の中へ潜り込み、目を閉じる。  深く深呼吸をして、眠ろうとする。  けれど、全く、眠れない。  頭の中が、ざわざわと波打って静かにならないのだ。  目蓋の裏に、これまで解いてきた過去問の数式や英単語が、脈絡もなく浮かんでは消える。  もし、明日大きな失敗をしたら。  もし、見たこともないような難問ばかりが出たら。  もし、体調を崩してしまったら。  もし。  もし。  もし。  とめどなく溢れる不安に押し潰されそうになりながら、何度も寝返りを打つ。  気付けば、時計の針は二十三時を回っていた。 「……はぁ……」  真っ暗な部屋に、深いため息が漏れ落ちる。  今さら起き出して参考書を開いたところで、何の意味もない。  そんなことは、自分が一番よく分かっている。  それでも、心が全く落ち着かない。  静寂の中で、自分の心臓の音だけが、急き立てるように妙に速く脈打っていた。    その時。  コンコン。  控えめなノックの音が、静かな部屋に響いた。  レオは弾かれたように顔を上げる。 「……はい」  扉が、ゆっくりと開く。  廊下の薄明かりを背にして立っていたのは、ケントだった。 「起きてた」 「……うん」  強がる余裕もなく、レオは素直に答える。  ケントは部屋に入り、ベッドの縁に腰を下ろした。  暗闇の中でも、見ればすぐに分かった。  レオの顔色は少し青白く、強張っている。普段なら、もう少し健康的な血色をしているのに。 「緊張してる?」 「……ちょっと」  それは、明らかな嘘だった。  ちょっとどころではない。吐き気がするほど、かなり緊張している。  ケントは、そんなことすぐに分かった。  昔からそうだ。レオは本当に不安になると、無口になり、余計なことを言わなくなる。  今が、まさにその状態だった。  ケントは少しだけ考える。  どうすれば、この強がりで繊細な恋人の心を解すことができるか。  そして、わざと軽い調子で言った。 「添い寝する?」  レオが、ピタリと固まった。 「……子供じゃないんだけど」 「そうか。じゃあ、部屋に帰るかな」 「……」 「帰るぞ」 「……別に、嫌とは言ってない」  布団を鼻まで引き上げながら、消え入りそうな小さな声で呟く。  その素直じゃない態度に、ケントは嬉しそうに低く笑った。  本当に、分かりやすくて可愛い。  数分後。狭いシングルベッドの布団の中に、大人の男が二人。  同じ家で暮らしていても、お互いに受験生ということもあり、こうしてくっついて寝ることは最近滅多になかった。  レオの肩は、少しだけ緊張で強張っている。  でも、不思議だった。  さっきまで、あんなに不安で全く眠れなかったのに。  隣にケントの大きな身体があり、その体温を感じているだけで。  荒立っていた波が引いていくように、少しずつ心が落ち着いていく。  布団の中で、ケントがそっとレオの手を探り当て、優しく握り込んだ。 「……冷た」  ケントが驚くほど、レオの指先は氷のように冷え切っていた。 「緊張してるから……」 「知ってる」  ケントは、その冷たい手を自分の大きな両手で包み込み、絶対に離さなかった。 「絶対、大丈夫」  耳元で囁かれる、低くて静かな声。 「レオ、ずっと頑張ってたじゃん」  空いている方の手が、レオの頭をポンポンと優しく撫でる。 「オレ、知ってるから」  毎日、夜遅くまで机に向かい、ボロボロになるまで参考書を解いていたこと。  模試の判定結果に一喜一憂し、時には悔しそうに唇を噛んでいたこと。  誰よりも真面目に、ストイックに努力し続けていたこと。  一番近くで、全部見ていた。 「だから、絶対に大丈夫」  その根拠のない、でも力強い言葉に。  レオは、ゆっくりと目を閉じた。  少しずつ、本当に少しずつ。  ケントの体温が伝わり、冷たかった指先にじんわりと熱が戻ってくる。  早鐘を打っていた心臓も、ケントの穏やかな呼吸に同調するように、落ち着きを取り戻していく。 「……ケント」 「ん?」 「……ありがとう」  言葉による返事はなかった。  代わりに、もう一度、愛おしそうに頭を撫でられた。  それがたまらなく心地良くて。  安心しきったレオは、嘘のようにあっさりと、深い眠りに落ちていった。  翌朝、雲一つない、見事な快晴だった。 「会場まで、一緒に行こうか?」  朝食の温かいスープを飲みながら、ケントが心配そうに言う。 「それはいい」  レオの返事は即答だった。 「大丈夫かよ」 「うん」  レオは、憑き物が落ちたようなすっきりとした顔で笑う。 「昨日、いっぱい応援してもらったから。一人で行ける」  その真っ直ぐな言葉に、ケントも安堵したように少し笑った。  そして、試験本番。  長かった。  本当に、永遠のように長かった。  鉛筆のカリカリという音だけが響く静寂な教室。  問題を解いている間は、ただ無我夢中で、必死だった。  これまでの努力を全て答案用紙にぶつけるように、頭をフル回転させた。 「そこまで。筆記用具を置いてください」  試験官の声で、気付けば終了時間。  レオは、震える手で鉛筆を置く。  終わった。ようやく全てが、終わったのだ。  大学の重厚な門を出る。  夕暮れ時の冷たい風が頬を撫でる。  周囲には、大きな荷物を背負い、安堵や疲労の表情を浮かべた受験生たちが次々と帰路についている。  レオも駅に向かって歩き出そうとして、ふと足を止めた。 「え……」  信じられないものを見たように、目を瞬かせる。  そこに、いた。  ケントが。  校門近くの、葉を落とした街路樹の下に立って、こちらを探していた。 「ケント!?」  思わず、大きな声が出る。  レオの声に気付いたケントが、顔を輝かせて大きく手を振った。 「お疲れ!」  その瞬間、レオの頭の中から、理性が完全に吹き飛んだ。  何も考えられなかった。  駆け寄る。そして、勢いそのままに、ぎゅっと、ケントの胸に強く抱きついた。 「うおっ!?」  突然のしかかってきた体重に、ケントが驚いて一歩後ろによろける。  でも、すぐにその背中に腕を回し、しっかりと受け止めてくれた。  数秒後。  ケントの心音を聞いて、レオはハッと我に返った。 「……あ」  周囲には、たくさんの受験生。  迎えに来ている保護者や予備校の講師たち。  ここは、大学の目の前。公衆の面前。  全部を一気に思い出し、レオは慌ててケントから身を離した。  顔が、耳の先まで火が出るほど真っ赤だった。 「ご、ごめん……! つい、反射的に……」 「ははっ、別にいいけど」  ケントは、声を上げて笑う。  嫌がるどころか、むしろ嬉しそうだ。  こんな人前でレオから抱きついてくるなんて、奇跡に近い。ものすごく嬉しい。 「で? テスト、どうだった?」  ケントの問いかけに、レオは、少しだけ考えて。  そして、晴れやかな笑顔で言った。 「……ちゃんと出来た、気がする」  ケントは、満足そうに深く頷く。 「じゃあ、絶対大丈夫」  合否の確実な根拠なんて、まだどこにもない。  でも、ケントがそう言って笑ってくれると、本当に絶対大丈夫だと思えるから不思議だった。  帰り道。  駅前の、ショーケースがキラキラと光るケーキ屋へ寄る。  真っ赤な苺が乗った小さなショートケーキと、濃厚なチョコレートケーキ。  二人分だけを買って、並んで帰る。  家に帰って、手を洗って、リビングでの、ささやかなお疲れ様会。  温かいコーヒーを淹れて、ケーキを食べる。  甘いクリームが、疲れた脳と身体にじんわりと染み渡っていく。  ようやく、終わったのだ。  プレッシャーに押し潰されそうになった、長く苦しい受験生活が。  レオはフォークをカチャリと皿に置き、心底ホッとしたように微笑んだ。 「……迎えに来てくれて、ありがとう。すっごく嬉しかった」  肩の力が完全に抜けきった、安心した顔。  無理をしていない、素直な笑顔。  ケントは、その顔を見つめながら思う。    可愛い。  とても。  ものすごく。  この怒涛の一年で、何度も「可愛い」と思ってきたけれど。  今、目の前で笑っているレオが、一番可愛いかもしれない。 「……なに?」  じっと見つめていたことに気付かれ、レオが小首を傾げる。 「いや、別に」 「嘘だ。絶対なんか変なこと考えてた」 「変なことってなんだよ。まあ、考えてたけど」 「なに」  ケントはカップを持ち上げながら、少し意地悪く笑った。 「最後まで頑張ってやり切ったレオ、すげぇかっこよかったなって」  そのストレートな褒め言葉に。  レオの顔が、またしても一瞬で真っ赤に染まる。  照れ隠しのように視線を逸らす、その反応までが愛おしい。  春になれば。  桜が咲けば、二人は晴れて大学生になる。  新しい環境、新しい人間関係。変化していく日々が待っている。  でも、今だけは。  まだ見ぬ未来のことは、一旦置いておこう。  ただ必死に走り抜き、今日という日を無事に乗り越えたお前を、全力で祝おう。  ケントは、向かいで照れている恋人を見つめながら、心からそう思った。

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