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第55話 家族になる
リサとケントが、この家に一緒に住み始めて数日。
まだお互いの生活リズムも掴みきれていない、最初の頃。
レオには、どうしても気になって仕方がないことがあった。
ケントの食生活だ。
朝、キッチンで朝食の準備をしながら、洗面所へ向かう背中に声をかける。
「ねえ、朝ごはん食べる?」
ケントは振り返り、軽く首を振った。
「いや、大丈夫」
「……食べないの?」
「うん。普段から朝は食べないから」
レオは、思わず眉をひそめた。
ケントはスポーツ科だ。
しかも、サッカー部のエース。
身長も高く、体格も良い。
毎日ハードな練習で、グラウンドを走り回っているはずだ。
それなのに、朝ごはんを食べないなんて。
昼はどうかといえば、購買のパンか、コンビニの弁当らしい。
夜は、部活の仲間とファミレスで外食して帰るか、あるいは買ってきた出来合いのものやレトルトで済ませるか。
「……大丈夫なの、それ」
心配になり、思わず口出ししてしまった。
小言を言う母親みたいだ、と自分でも思う。
ケントは気にした風もなく、あっけらかんと笑った。
「意外と平気。慣れてるし」
平気なわけがない。
身体の基本は食事だ。でも、まだ一緒に暮らし始めたばかり。
そこまで深く踏み込んで、口出しできるような関係じゃない。
レオは、ぐっと言葉を飲み込んで黙った。
そんな、すれ違うような日々が続いた。
そして、ある日のこと。
今日はケントの部活が長引くらしいと、リサから聞いていた。
今日の夕飯のメニューは、豚の生姜焼き。
ショウ兄も好きなメニュー。
リサさんも好きだと言ってくれた。
フライパンで肉を焼きながら、少し迷う。
多めに作った。余るくらいの量は、十分にある。
火を止め、エプロンのポケットからスマホを取り出す。
画面を開く。ケントとのメッセージアプリのトーク画面。
事務的な連絡しかしていないから、履歴はまだスカスカだ。
少し、緊張する。
迷惑じゃないだろうか。
余計なお世話だと思われるだろうか。
でも、あの不規則な食生活を放っておけなかった。
迷いを振り切るように、文字を打ち込む。
『部活お疲れ様』
『夕飯の残りを冷蔵庫に入れておいたから、帰ってお腹減ってたら温めて食べてね』
送信ボタンを押す。
画面を見つめる。
数分後。
ぽん、と通知音が鳴った。
『ありがとう』
スタンプもない、短い返信。
感情は読み取れない。でも、拒絶されなかったことが、レオは少しだけ嬉しかった。
その日の夜、二十一時を少し回った頃。
ガチャリと玄関のドアが開き、ケントが帰宅した。
ひどく疲れていた。
長時間の部活。
重いウェイトを使った筋トレ。息が上がるほどの走り込み。
身体中の筋肉が悲鳴を上げている。
今日は珍しく、部活の仲間からの食事の誘いを断って真っ直ぐ帰ってきた。
腹が減っていた。背中と胃袋がくっつきそうだ。
薄暗いキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。
冷たい冷気と一緒に、目に飛び込んできたもの。
ラップがきれいにかけられた、大きめのお皿。
たっぷりの生姜焼きと、千切りキャベツ。
ほうれん草のお浸しが入った小鉢。
隣には、温めるだけの状態になったお鍋の味噌汁。
「……ほんとに、残してくれてたんだ」
メッセージの通りだった。
自分のために、用意された食事。
リサと二人暮らしの時には、決して味わうことのなかった光景。
皿を取り出し、レンジへ入れる。
スイッチを押す。
庫内が明るくなり、低い音が鳴る。
次第に、甘辛い醤油と生姜の香りが漂ってきた。
温まった皿を食卓へ運ぶ。
向かいには誰もいない。
でも、不思議と孤独感はなかった。
箸を取り、豚肉を口に運ぶ。
そして、一口。
「……うまっ」
静かなダイニングに、思わず声がこぼれた。
肉が柔らかい。
味が濃すぎず、絶妙な甘辛さ。
でも、白いご飯が無限に進む味付け。
生姜の香りが食欲をそそる。
副菜の和え物も、優しい味がした。
温かいお味噌汁が、疲れた身体の隅々にまで染み渡っていく。
全部、信じられないくらい美味しい。
ケントは、しばらく無言で食べ続けた。
同い年の男のはずなのに、なんでこんなに料理が上手いんだ。
幼い頃の記憶にある、今は亡き母親の料理よりも、ずっと美味しいかもしれない。
いや、かも、じゃない。
間違いなく、今まで食べた生姜焼きの中で一番美味い。
衝撃だった。
胸の奥が、温かいもので満たされていく。
最後のひと口を食べ終わる頃。
脱衣所の方から、パタパタと軽い足音が聞こえた。
お風呂上がりのレオだった。
タオルを首にかけ、大きめのパジャマを着ている。
髪が少し濡れていて、そこから甘いシャンプーの匂いが漂ってきた。
食卓に座るケントに気付き、レオが足を止める。
「あ、おかえり」
「……ただいま」
少しの沈黙。まだ、どう接していいか分からない距離感。
でも、ケントは立ち上がった。これだけは、ちゃんと言いたかった。
「ご飯」
「うん」
「……めちゃくちゃ美味しかった。ごちそうさま」
レオが、驚いたように目を丸くする。
「え……ありがとう」
「本当に。店出せるくらい美味かった」
「ふふっ、良かった」
その時だった。
レオが、少しだけ笑った。
大笑いじゃない。ほんの少し、目元を緩めただけ。
でも、確かに。とても柔らかく。心底嬉しそうに、ふわりと微笑んだ。
ドクン。
ケントの心臓が、自分でも驚くほど大きな音を立てた。
一瞬。本当に一瞬だったけれど、その笑顔から、目が離せなくなった。
時が止まったように感じた。
なんだ、今のは。
男相手に、かわいい、なんて。
いや、俺は、何をごちゃごちゃ考えてるんだ。
ケントは慌てて視線を逸らし、空になった食器を持ってシンクへ向かった。
動揺を悟られないように。レオは、ケントの胸の内の嵐に気付いていない。
「また作るね。おやすみ」
そう言って、レオは自分の部屋へ戻っていった。
一人残されたキッチン。
水の滴るシンクの前で、ケントはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
うるさい心臓の音を持て余しながら。
翌日の朝。キッチンには、早くから起きているレオの姿があった。
エプロンを締め、手際よく弁当を作っている。
自分の分。ショウ兄の分。リサさんの分。
そして、ごく自然な動作で四つ目の弁当箱を広げる。
ケントの分だ。
特別な理由はない。
作ってくれと頼まれたわけでもない。
強いて言うなら、昨日、嬉しかったからだ。
自分の作ったものを、あんなに「美味しい」と食べてくれたことが。
きれいに空っぽになったお皿を見たことが。
だから、今日も作ろうと思った。
それだけだった。
昼休み。
賑やかなスポーツ科の教室。
自分の席で、ケントが弁当箱の蓋を開く。
きれいに巻かれた、黄色い卵焼き。
大きな唐揚げ。
緑が鮮やかなブロッコリーと、赤いミニトマト。
栄養バランスも、彩りも完璧な弁当。
周りに集まってきた部活仲間が、身を乗り出して覗き込む。
「うわ、何それ! めちゃくちゃうまそう!」
「お前、弁当男子になったの?」
「……だろ?」
自分で作ったわけでもないのに。
少し自慢げに胸を張っている自分に気付き、ケントは内心おかしかった。
夜。キッチンのシンクに置かれた、空っぽになった弁当箱。
それを見るたび、レオの胸には温かいものが広がる。
毎日、毎日。ケントは、どんなにおかずが多くても、きれいに平らげてくれる。
嫌いなものも残したことがない。
そして、夜。
「ごちそうさま。洗っといたから」と、自分でスポンジで洗い、水気を拭き取った弁当箱を返してくれる。
当たり前のようなその気遣いが、とても嬉しかった。
そんな、何気ない日々が積み重なっていく。
気付けば、
「おはよう」
「おかえり」
「いただきます」
「ごちそうさま」
交わす言葉が、ぎこちないものから、ごく自然なものへと変わっていた。
最初は、同級生で、急に同居することになった義理の兄弟。
ただそれだけの、遠い存在だった。
でも、同じ家のドアをくぐり。同じ食卓で、同じご飯を食べて。同じ時間を、少しずつ共有していく。
少しずつ。本当に少しずつ。不器用な二人は、家族の形を作っていく。
この時の二人は、まだ誰も気付いていなかった。
この先、レオにとって、ケントが。ケントにとって、レオが。
自分の命よりも、人生で一番大切な人になることを。
ただ、あの夜、一人で食べた生姜焼きの温かさと味だけは。
この先、どれだけ長い年月が経っても、ケントが忘れることは、決してなかった。
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