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第56話 巣立ちの時

 春、巣立ちの日。  大学進学が無事に決まった、二月。  外はまだ冷たい風が吹いているけれど、微かに春の匂いが混じり始めていた。  暖房が効いたリビング。夕食の時間だった。  テーブルの中央には、湯気を立てる大きな鍋。  四人で囲む、いつもの賑やかな食卓。  話題は自然と、四月からの新しい生活のことになる。  大学の入学式。複雑な履修登録の話。通学時間の確認。  そんな、未来へ向けた明るい話題が続く中で。  ケントが、ぽつりと言った。 「おれ、一人暮らししようかな」  ピタリ、と。リサの箸が止まる。  食卓の空気が、一瞬だけ止まった。 「え?」    最初に反応したのは、やはりリサだった。  目を丸くして、ケントを見ている。 「なんで!?」 「んー。何となく?」 「何となくって。ここからでも十分通える距離でしょ」 「通えるけど」    ケントは、鍋の具材を取り分けながら肩をすくめる。   「大学生になるし。そろそろ自立したいなって」 「でも、大丈夫なの? 家事とか、ちゃんと一人で出来る?」  リサが、心配そうに眉を下げた。  レオは、無言のままそのやり取りを聞いていた。  手元のグラスを見つめる。  正直。胸の奥が、ざわざわとしていた。少しだけ、寂しかった。  いや、少しじゃない。すごく、寂しい。  大学は別になる。キャンパスの場所も違う。  それだけでも、十分すぎるほど不安だったのに。  家まで、別になる?帰る場所が、違う?隣にケントがいない?  そう想像した瞬間。  胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように苦しくなった。  嫌だ。離れたくない。  そんな我儘な感情が、喉の奥まで込み上げてくる。  すると、ケントが箸を置いて突然言った。 「じゃあさ」  全員が、ケントに顔を向ける。  ケントは、まっすぐにレオを見た。 「レオが一緒なら、いい?」  沈黙。鍋が、ことことと音を立てるだけ。  リサが、ぱちぱちと瞬きをした。   「……は?」    向かい側に座るショウも、お茶の入ったグラスを持ったまま止まっている。  ただ、レオだけが。息をするのと同じくらい、自然に。  即答だった。 「行く」  今度は、全員が完全に固まった。   「……え」 「一緒に行く」  迷いがなかった。本当に。  自分でも驚くほど、一ミリの迷いもなかった。  口に出して、言った瞬間、レオ自身もはっきりと気付く。  ああ、おれ。ケントと一緒にいたいんだ。  大学生になっても。大人になっても。その先も、ずっと。  どこに住むかとか、どんな生活になるかとか、そんなことはどうでもいい。  ただ、隣にいたい。ケントがいる場所が、おれの帰る場所だ。  すると、向かい側に座っていたショウが。  カタン、とグラスを置いて。  なぜか、両手で顔を深く覆った。 「……ショウ兄?」    レオが首を傾げる。  返事がない。  ただ、大きな背中と肩が、小刻みに震えている。 「え? ショウ?」    リサも慌てて顔を覗き込む。 「俺」    手のひらの隙間から漏れたショウの声は、酷く掠れていた。   「泣きそう」 「なんで」  本気で意味が分からないレオ。  ショウは顔を上げ、両手で豪快に目を擦った。  そして、笑った。少しだけ鼻の頭を赤くした、泣きそうな顔で。 「レオ」    静かで、深い声だった。   「覚えてるか」 「何を?」 「小学生の頃」  その瞬間。リビングの空気が、すっと変わった。  ショウの瞳の奥に、過去の景色が浮かんでいるのが分かった。 「父さんと母さんがいなくなって、しばらく経った後。俺が、この家を売って別の場所に引っ越そうって言った時のこと」  レオの目が、少しだけ揺れた。  胸の奥が、ちくりと痛む。覚えていた。  事故の直後。  広すぎるこの家に残された、兄弟二人。  両親の気配があちこちに残るこの家にいるのは、ショウにとってあまりにも辛すぎたのだろう。  一度だけ、小さなマンションへ移ろうと提案されたことがある。  でも、当時のレオは、泣き叫んでそれを拒否した。 『いやだ』 『絶対にいかない!』 『父さんと母さん、帰ってくるかもしれないじゃん!』 『ここにいなきゃ、ぼくたちが分からなくなっちゃう!』 『だから、いやだ!!』  あの頃は、まだ、受け入れられなかった。  両親の死を。  もう二度と、あの扉が開くことはないという現実を。  この家を離れることは、両親がいなくなったことを完全に認めるみたいで。  どうしても、出来なかった。怖かったのだ。  ショウが、小さく笑う。 「レオはさ」 「……」 「ずっと、この家に縛られてたんだよ」  レオは、何も言えなかった。  図星だったから。  楽しい思い出と一緒に、悲しい記憶が染み付いたこの場所。  ここから動くことは、過去を捨てることだと思っていた。  すると、ショウはレオを真っ直ぐに見た。  親代わりとして、ずっとレオを守り続けてきた、本当に優しくて温かい目で。 「でも、今」    ショウの声が、また少しだけ震えた。   「自分から、出ていくって言った」 「……ショウ兄」 「ケントと一緒とはいえ、自分から、新しい場所に行くって。未来に、進むって……っ」    ショウの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。   「成長したなぁ……っ」  そして、子供のようにぽろぽろと泣き始めた。 「ちょ、泣かないでよ」    レオが慌ててティッシュを差し出す。   「無理」 「なんで」 「嬉しいから。レオが前を向いたのが、嬉しくて仕方ないんだよ」  ショウは笑いながら、ぐしゃぐしゃの顔で涙を拭く。  レオは、どうしていいか分からず困ってしまう。  でも、胸の奥はとても温かかった。  すると、それまで静かに見ていたリサが、ふと腕を組んだ。 「ところで」  空気が、再び変わる。嫌な予感。  レオとケントの背筋に、同時に冷たい汗が流れた。 「なんで、あんなに即答だったの?」    リサの目が、スッと細められる。  沈黙。誰も、何も言えない。 「ねぇ?」    リサが、ニヤリと笑う。  完全に、すべてを分かっている顔だった。  獲物を追い詰めるような、楽しそうな声。 「ケント?」 「……はい」 「レオ?」 「……はい」 「二人とも、お姉ちゃんに何か言うこと、あるんじゃないの?」  ついにこの時が来た。  ケントは内心で天を仰いだ。 「ケントと、一緒にいたいから」  レオが、唐突に口を開いた。  静寂。  ケントが驚いて隣を見る。  レオは、耳まで真っ赤に染めながら、でも真っ直ぐにリサとショウを見ていた。 「おれたち、付き合ってる」  はっきりと、言った。数秒の静寂。  ぶっ、と。リサが吹き出した。   「直球すぎる!」    ショウは涙を拭いたティッシュを持ったまま、真顔になっていた。 「……付き合ってる?」    ショウが低く問う。小さく頷くレオ。  顔から火が出そうだった。  数秒後、リサが両手で顔を覆って、叫んだ。   「やっぱりー!!」 「……は? リサ、知ってたの!?」    ケントが素っ頓狂な声を上げる。   「当たり前でしょ! あんたたち、隠せてると思ってたの? どんだけ分かりやすい態度とってんのよ!」 「いつから……」 「一年半くらい前から。距離感おかしくなったし、ケントのレオを見る目が完全にそれだったから」 「早すぎるだろ……」  頭を抱えるケント。  その間、ショウだけが静かだった。  レオは、恐る恐る兄の顔を見る。  怒るだろうか。それとも、困るだろうか。  嫌悪感を、抱かれるかもしれない。  そう思って、息を呑んだ。  でも、ショウは笑っていた。  本当に、心の底から嬉しそうに。 「よかったな」  ただ、それだけだった。 「……え?」    ショウは、優しい声で言う。   「レオが、すごく幸せそうだから。俺は、それだけでいい」  その一言で、今度は、レオの目の奥が熱くなった。  視界が歪む。  ショウは、ずっと知っていたのだ。  レオが、両親のことで苦しんでいたこと。  自分だけが生き残ったと、自分を責めていたこと。  この家に、過去に、縛られ続けていたこと。  全部、知っていた。  だから今、隣にいるケントと一緒に、新しい未来へ進もうとしている姿が。  ただ、嬉しかったのだ。 「ショウ兄……っ」 「泣くなよ。せっかくの鍋がしょっぱくなるぞ」    ショウが笑う。  レオは袖で目を乱暴に擦りながら、小さく頷いた。  その夜。 夕食の片付けを終えて、自室に戻ったあと。  ベッドに腰掛けたケントが、ぽつりと言う。   「ついにバレたな」 「うん」    レオも、ケントの隣に座る。   「というか、リサにはとっくにバレてたな」 「うん。……恥ずかしい」    少し、沈黙。そして、レオは小さく笑った。 「でも」 「ん?」 「なんか、すごく安心した」  ケントの肩に、こつんと頭を乗せる。  ケントが隣を見る。レオは、窓の外を見ていた。  春の、澄んだ夜空。星が瞬いている。  昔だったら。  この家を離れるなんて、絶対に考えられなかった。  でも、今は違う。  大切な思い出は、心の中にある。  ここにいなくても、消えたりしない。  過去を抱きしめたまま、前を向ける。  だって。  隣には、ケントがいるから。  ケントの手が、レオの腰に回る。  ぐっと引き寄せられて、膝の上に乗せられる。   「本当に、オレと一緒に行く?」    ケントが、下から覗き込むように問う。   「行く」 「後悔しない?」 「絶対しない」 「……レオのこと独り占めするけど、いいの」 「いいよ。おれも、ケントを独り占めするから」  レオがケントの首に腕を回す。  そのまま、ゆっくりと唇を重ねた。  温かくて、甘いキス。未来への約束。  少しだけ唇を離して、レオは微笑んだ。 「楽しみだね、二人暮らし」  そう言ったレオは。  春の夜風のように優しく、そして、たぶん誰よりも穏やかで幸せそうに笑っていた。

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