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第30話 逃亡
「ぐっ、ぅ………」
沼のように不快な感覚から、シイナの意識は浮上する。頭にへばりつくがごとき鈍痛に顔をしかめながら目を開けると、そこは仄かに見覚えのある仮眠室だった。
「ここは……ラウ大兄の……?」
幼い頃から何度も訪れているラウの所有する事務所の仮眠室。自分がそこに寝かされていたことに気付き、その直後、己が意識を失う前に起きたことを思い出してシイナは飛び起きた。
「そうだ、ユオシェン……! ぐっ……」
ズキズキと痛む頭には包帯が巻かれていた。どうやら自分はラウに身柄を保護されて、手当を受けたらしい。
だったらユオシェンは? ユオシェンはどうなったのか?
慌ててベッドから降り、状況を確認しようと部屋から出ようとする。しかし、ちょうどタイミングよく向こう側から開かれたドアによって、それは阻止された。
「あぁ、起きたのか、弟分。思ったよりは早かったな」
「ラウ大兄……。手当てをしていただきありがとうございます。それで、ユオシェンは……」
「『偶人(オゥレン)』なら別室で保護してあるよ。一旦は無傷だ。お前にとっての状況は良くないがな」
ユオシェンが無事であることを知り、シイナはホッと胸をなで下ろす。
よかった。あの状況からひとまず命が助かったのならそれでいい。でも、自分にとっての状況が悪いというのは一体……?
ラウはシイナに椅子に腰掛けるように促し、自身もその向かいにパイプ椅子を引きずってきて腰掛けた。
「あの子は、人前で『偶人(オゥレン)』として戦った。この意味が分かるな?」
「ッ……」
『偶人(オゥレン)』として戦う。それはつまりユオシェンが『偶人(オゥレン)』という殺人人形としての機能を失っていないと示したということだ。
半年前、人形の身柄を引き受けたシイナは、それを手に入れたいという欲求を抑えきれなかった。人形に名を与え、偽物の好意を植え付け、戦闘能力が使えないと言い聞かせた。組にも『偶人(オゥレン)』は未だ使い物にならないと伝え、自分の手元に置いておける期間をできるだけ引き延ばそうとした。
どれも、組に対する背信行為だ。今ここで殺されて、死体を野ざらしにされても文句は言えない。
「シイナ。弟分。お前が『偶人(オゥレン)』の戦闘能力発現の可能性を黙っていたことについては、上に報告するつもりはない。ただし、今後『偶人(オゥレン)』の身柄は予定通りに組のものになり、アイツの記憶からお前の存在は消える。異論は無いな?」
「……。分かりました……」
抗弁ができるわけがなかった。これはラウの優しさだ。彼はこちらが裏切りを働いていたことを察した上で、それを見逃してくれると言っている。だけどその言葉を簡単に受け入れることはできなかった。それほどまでに己は、ユオシェンという人間を心の底から愛してしまっていた。
俯き、黙り込んだシイナに、ラウは痛ましげに声をかける。
「ボスに引き渡す前に面会することもできるが、どうする?」
「……いえ、やめておきます。彼に会ったら、これまで俺に抱いていた愛情が全部偽物だったと懺悔してしまいそうなので」
「そうか……」
ユオシェンはすでにその事実を知っている。ラウは彼を保護した後の聞き取りでそれを把握していたが、シイナに伝えるつもりはなかった。
ただでさえ恋人だった存在と引き離されることを受け入れた彼に、これ以上残酷な事実を知らせるほど己は非情ではない。
裏切りへの罰として教えるという選択肢もあるが、それで大切な弟分が組そのものに対して負の感情を抱くのは避けたい。シイナがこれ以上、組への背信行為に手を染め、いつか処断されてしまうことを己は望んでいないのだから。
ラウはいくつも口に出しかけた言葉を飲み込み、俯いて沈黙するシイナの頭頂部を見下ろし続ける。
その時、仮眠室のドアが音を立てて開かれ、ラウの部下が慌てて駆け込んできた。
「大変です、大兄! 『偶人(オゥレン)』が逃げました!」
「何だと!?」
立ち上がり、大股で去ろうとするラウの後ろを、シイナは少し遅れて追いかけた。
今このタイミングで逃げただなんて組に知られたら、ユオシェンはボスのものになるどころか、危険因子として処断されてしまう。
「ユオシェン、なんでだっ……!」
泣き出しそうなほど顔を歪めながら、シイナは虚空へと呟いた。
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