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第35話 ユオシェンの自我

「シイナっ……!」  拳を振り抜いた姿勢で肩で息をしていたシイナが、ユオシェンの呼びかけに気付いて振り向く。 「ユオシェン! お前、まだ自我が――」 「俺を無視してんじゃねぇぞ、会計係ぃ!」  右手で顔の半分を押さえながらホァンはよろよろと立ち上がる。シイナは脇の下に吊っていた拳銃を掴んで構えようとしたが、銃口がホァンに向く直前、ホァンはベッドの上のユオシェンに声を荒げた。 「『偶人(オゥレン)』、俺を守れ! 命令だ!」 「――はい、ご主人様」  平坦な声がユオシェンの口から勝手に発せられ、彼はホァンを庇うようにシイナの前に立ちはだかる。 「ははっ、悪いなぁ会計係。『偶人(オゥレン)』の主人はもう俺なんだよ。じゃ、愛しい元ハニーを殺したくないなら、素直に殺されてくれや」 「チッ……」  ゆらりと幽鬼のように立つユオシェンの目には理性の光が明滅しており、それがシイナの判断を鈍らせる。 「『偶人(オゥレン)』、目の前の男を殺せ。なぶり殺しにしろ!!」 「はい、ご主人様」  人形の足が床を蹴り、シイナへと一気に距離を詰める。駆け出した勢いのまま繰り出された蹴りがシイナの体に直撃し、彼はまるで猛獣に突進されたかのような衝撃とともに壁際まで蹴り飛ばされる。 「ぐっ……ユオシェンっ……」  咄嗟に腕を使って内臓がやられることだけは避けたが、そのせいで利き手が痺れ、銃も床に取り落としてしまった。  人形のうつろな目がシイナを捉え、単調な足取りで近付いていく。  やるしかないのか。だが、洗脳で脳のリミッターが外れた動きをする『偶人(オゥレン)』相手にどうやって戦えばいい。  顔を歪め、シイナは迫り来る人形を観察する。彼にはまだユオシェンの人格が残っている。肉体の主導権は『偶人(オゥレン)』としての彼にあるようだが、せめてほんの数秒でもいい、ユオシェンの人格が体の自由を握ることができれば、その隙に今の主人であるホァンを始末できるのに――  人形の拳が振りかぶられ、シイナの顔面を殴りつける。 「ぐぁ、っ……!」  あまりに速い動きに防御することもできず、シイナは正面からの攻撃を受け、壁に後頭部をぶつけて意識を飛ばしそうになる。 「ッ、ぐ、はぁっ……ユオ、シェンっ………」  ギリギリのところで踏みとどまり、シイナは己の足に力を入れて立ち続ける。彼に名を呼ばれた人形の顔が苦しそうに歪んだ。 「シイナっ……にげ、てっ……!」  愛しい恋人の声で懇願しながら、人形はシイナの体へと殴りかかる。「なぶり殺しにしろ」という命令を忠実に守り、人形はギリギリで意識を飛ばすこともできない攻撃を、執拗に行い続けた。 「ぐっ……ガッ、かはっ……」 「シイナぁ……! やだ、やだやだぁっ……!」 「ゴ、ぐっ……げっ…あ………」  愛する人を体が勝手に殺そうとしているという拷問めいた状況に、ユオシェンはボロボロと涙を流して絶望する。  もうやめて。シイナを傷つけたりしないで。  自分の中に居るもう一人の虚ろな己に懇願しても、意思のないそれが応えてくれるわけもない。  なんとかしないと。俺の体を取り戻さないと。そのためにはどうすれば。  ろくに反撃も出来ず嬲られていくシイナを見ながら、ユオシェンは必死に考える。  俺は消えたはずだった。だけど何故かこうして戻ってくることができた。何かきっかけがあったんじゃないか? 俺の意識を引き戻した何かのおかげで今の俺は――  殴られ続けているシイナが、せめてもの抵抗をしようと身をよじる。人形の蹴りが近くにあった棚を破壊し、その中に収められていた酒瓶が音を立てて割れる。  立ち上るアルコール臭が鼻をつき、人形はぴくりと動きを止めた。 「お酒の……シイナっ……それを、俺に、っ………」  その行動が何を招くのかも分からないまま、意識のほとんど残っていないシイナにユオシェンは呼びかける。シイナは震える手でポケットから清潔なハンカチを取りだし、それをこぼれた酒の上へと押しつける。シイナとユオシェンの視線が交わった。 「何をしてやがる! もういい、そいつを殺せ、『偶人(オゥレン)』!」 「ぁ、あぁぁああぁぁっ……!!」  シンプルな命令を受け、反射的に体が動く。シイナは手を突き出し、人形の鼻と口を覆うようにハンカチを押しつける。ハンカチに染みこんでいた強い酒精が人形の脳を直撃し、その匂いに紐付けられていたユオシェンの人格を前へと引きずり出す。  シイナを襲おうとしていた最後の一撃は止まり、ユオシェンの膝がかくんと折れて、シイナの上にのしかかるように前へと崩れ落ちた。 「……は?」  何が起きたのか理解できず、それまで距離を取って様子を伺っていたホァンが、折り重なるように壁際で脱力する二人のもとへと歩み寄る。  二人に辿り着くまであと二歩の距離まで彼が近付いたその時――それまで力なく落ちていたシイナの手が突然動き、隠し持っていた拳銃の銃口をまっすぐにホァンへと向ける。 「え」  間抜けな声を上げた裏切り者の眉間に連続して三発の銃弾が放たれ、断末魔を上げることもなく彼は絶命した。 「はぁ、はぁっ……ユオシェン…………」 「えへ、へ……?」  もたれかかるようにして微睡んでいる恋人の額に、シイナはキスを落とす。酷く酩酊した様子の彼はマトモな言葉を返すこともできそうになかったが、その緩んだ眼差しは目の前にいるシイナへの愛しさで溢れていた。 「これから、どうするかな……」  いっそここで二人揃って死んでしまった方が幸せかもしれない。  そんな世迷い言が浮かんでしまうほど穏やかで愛しい時間の中、シイナはユオシェンを抱きしめ、そのまま意識を手放した。

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