15 / 20

第?夜 きみのいない夜に

「愛してる」  最後の夜に、一度だけ耳元で囁かれた。ビブラートの掛かった声に誘われて目を合わせると、長い睫毛が震えていた。  上弦の月が、あいつの家に向かう俺の足元を薄く照らしていた。アスファルトに覆われた、車通りの少ない住宅地の中の道。  知り合ってからほぼ五年が経ち、体を重ねるようになってからは三年ほど。  土曜の夜は必ずといって良いほどにあいつと過ごした。あいつにはいつも数人の恋人が居て、俺はフリーの時もあればそうでない時もあったし、女を抱いている時期も抱いていない時期もあった。  未だにあいつとの関係には名前なんて付けられない。  馴染みの店に飲みに行こうと家を出て、ふと空を見上げると下弦の月が掛かっていた。凍て付いた空気を震わせて、白い息が闇に散っていく。気が付くと自然に足があいつの家に向かっていた。  行ったって何もないのは解っていた。誰も住んでいない古びた漆喰の壁が青い光に照らされて、裏の林の暗闇から浮き出ているかのようにぽつんと屋根のてっぺんに月を頂いている。  コートのポケットから手を出して錆が浮きかけた門扉に手を掛けると、カシャンと硬質な音を立てて揺れた。勿論内側にはチェーンが掛かり施錠されている。  上弦から下弦に変わる間、あいつからは何も音沙汰はなかった。国に帰ると言ったって、国名すら知らない俺にはどうしようもない。ただ、いつか絵葉書くらいは届くんじゃないかなんてのんびり構えていたけれど、何故だかふと声が聞きたくなった。  ひょっとしたら、とポケットから携帯電話を取り出す。  俺とは別の接点があったらしい同級生の家の電話番号を押す。登録はしていないけれど、黒電話時代から知り合いの番号は暗記する癖がついているため、自然に指先が動いた。  受話器を上げる音がして「はい、榎本です」と女性の声がする。 「あの、夜分にすみません。満くんの同級生の軸谷と言いますが」  携帯同士ならともかく、固定電話に掛けるには少し遅い時間だと気付いて慌てて枕詞を付けた。 『軸谷先輩、ですか? あたし、妹の美里です』  驚きの混じった声。母親ではなかったことに少し安堵する。 『兄なら、不在です。あの……』  記憶の中から榎本の妹の顔を引っ張り出そうとして、諦める。小等部から同じだった筈だが、学年も性別も違うとなれば全く覚えていない可能性の方が高い。  それよりも、語尾に含まれる妙な空気が気になった。 『もし、あたしに答えられる事なら覗いますけど』 「いや、じゃあ日を改めます。ちょっと尋ねたいことがあっただけなんで」 『無理だと思います。だから、あたしが……あたしで良ければ』  何処か縋りつくような声だった。  じっとしているのも寒いからと、今度こそ店の方へとゆっくり歩き出していた足が止まるほどに。 「それって、どういう……」 『ご用件は、なんでしょうか』  殆ど泣きそうな、そんな印象で遮られて。 「ウォルターから何か、連絡はなかったかと」  口にした途端、息を呑む様子が伝わって来た。 『やっぱり、何も知らなかったんですね……』 「え?」  先刻から感じ始めていた得体の知れない不安に苛まれて、声が震えた。ポケットの中に突っ込んだままの右手が、冷たいジッポを握り締める。 『ウォルター先輩は……帰国直後に……待ち伏せしていた刺客に刺されて──』  刺客? 一体何処のファンタジーだかハードボイルドだかのストーリーなんだ。  ふわふわと、益体もないことを思い付く自分と、不安の正体を知って愕然とする自分と。 『直後は、重態だって、危ないからって兄からも連絡があったんです。でも、その後情勢が変わって、もうあの国には出入りも出来ないし情報も遮断されていて、父も兄も行方不明なんです──』  大変なのは自分たちの方だろうに、自失していた俺は、彼女が繰り返し呼ぶ声にやっとのことで返事をして、礼を言ってから電話を切った。  俺は、何も知らない。あいつの家族のことを少しと、幼い頃のこと。昼間は他愛もない学生同士の会話だけで、夜に少しだけ、あいつの気まぐれに告げられる身の上話だけで満足していた。  知りたいと思わなかったわけじゃない。でも、特に突っ込んで訊く必要性もなかったし、好奇心だけで突付くにはあいつの過去は重そうだということは悟っていたから。  あいつの背負っているもの、今どういう状況に居るのかということ。どうして急に帰国するなどと言い出したかということすら……何も知らなかった。  ただ待っていれば、いつかまたあの家に明かりが灯るんじゃないかなんて、漠然と考えていて、あの夜、今度いつ会えるかなんて尋ねもしなかった。  なあ、ウォルター。お前は、今何処で何をやってるんだ?  お前の声が聴きたいんだ。  世界中何処にでも繋がるツールだなんて言っても、お前にだけは繋がらない。  聴かせてくれよ、どんな言葉でもいいから。  俺は、この街で待っているから……。  ──声を、聴かせて。

ともだちにシェアしよう!