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第2話 隠密活動は慎重に
二十一時を回るころ、佐野はのっそりと自分のデスクから立ち上がった。
大きく伸びをしながらフロアを見回すと、さすがに人はまばらだ。
決してホワイト企業とはいえない十月電気でも、ここ数年は働き方改革やリモートワークの普及もあり、夜遅くまでオフィスに残っている社員は珍しくなった。
念の為、ホワイトボードにチラリと視線をやる。やはり佐野以外の総務部人事課のメンバーは全て退勤した後のようだ。これなら、周囲を警戒する必要もなさそうだ。
「そーこなくちゃね」
人事課長の藤田のデスクの引き出しを開けて、地下の郵便室の鍵を取り出す。
鍵についているクマのキーホルダーは可愛いもの好きの藤田が定期的に新しいものに変えていて、最新バージョンはパンツを頭に被ったクマだ。可愛いのか可愛くないのかはよくわからない、なんともトンチキなキャラクターである。
ポケットにパンツクマを突っ込んで、そのまま廊下へ出て、廊下の突き当たりにある非常階段の扉を開け、地下へと向かう。
人事部のあるフロアは2階から、地下一階の郵便室まではさほど遠くない。
狭く薄暗い非常階段を降りるのもダンジョンめいていて嫌いではないが、一月の非常階段はひどく寒い。
コートを着てくればよかった、と身を震わせる。
地下一階のフロアにたどり着き、廊下を奥へと進むと古びたフォントで郵便室と記載がある。社員がくることなど滅多にないエリアだけに、時が止まったようになっているのだ。
パンツクマで郵便室の鍵を開け、ネームカード付きの棚の間を進み、左奥のスペースへと向かう。
使われなくなったブックスタンドや壊れたモニター、机や椅子などが山積している一角に、故障中と張り紙のしてあるドリンクサーバーがある。
慣れた手つきでドリンクサーバーの蓋部分を開けると、中には紙きれが一枚入っていた。
「今週はご依頼アリってことね。毎度ありー」
紙片にはルール通り、QRコードが記載されている。その場で読み込みことはせず、すぐに折り畳んでポケットに滑り込ませた。
踵を返そうとした瞬間、ガチャリとドアノブを回す音がし、心臓が縮み上がる。
こんな時間に、一体誰が──?
慌てて大股でドリンクサーバーのあるエリアから動いたのとほぼ同時に、「誰かいるのか」と低く静かな声がした。
──最っ悪だ。
聞き覚えのあるその声に、佐野は思いっきり顔を顰めた。今遭遇するには都合が悪いことこの上ない相手だ。
だが、ここに隠れているわけにもいかない。
怪しまれるわけにはいかない。声の主の元に駆け寄って大声で応じる。
「いるいるっ、俺、俺! 人事の佐野! ──その声、伊坂ちゃんだよな?」
声の主──佐野の同期の伊坂真一 はこちらの姿を認めると、怪訝そうな声で「……佐野?」とつぶやいた。
明らかに怪訝そうなその仏頂面に、胃がキリリと痛くなる。
──勘弁してくれ。
扉の前に佇む伊坂は相変わらずのいい男っぷりだ。
身長百七十五センチの佐野を見下ろす、百九十センチ近い高身長。切れ長の涼しげ目元からは、冷酷な雰囲気が漂っている。
伊坂は伶俐な目元をすがめて、
「なんでこんな時間にここにいるんだ」
と冷たく言い放った。
内心冷や汗をかきながら、ヘラヘラと口を開く。
「あー、いや、俺、確定拠出年金の資料取り寄せたつもりだったんだけど、そういや届いてないなーって思って」
「……」
佐野の言葉に、伊坂の墨で書いたような美しい眉がグッと顰められる。
「ほら、パートの武井さんってわかるだろ? あの人今日休みだったからさ。自分で観に行こうかなーと」
もちろん全くの口から出まかせだ。
けれど、部署の雑務を担うを担う武井さんが休みだったのは事実だ。
確定拠出年金の資料取り寄せは年度末にはありがちだし、とっさの言い訳の割にはナイスな気がする。
伊坂が低く静かな声で応じる。
「……そうか。あったのか?」
「え? ああ、いや、なかった。残念ながら」
「そうか」
伊坂は仏頂面のまま黙り込む。
沈黙が気まずくて、佐野は軽い調子で口を開いた。
「伊坂ちゃん、久しぶりじゃん。元気にしてた? 経営企画部の仕事はどーよ。忙しいんじゃないの?」
「特に変わりない」
「そ? よかった」
内心、かわいくねーと微妙に鼻白む。
伊坂の所属する経営企画部・通称ケイキは十月電気の精鋭部隊として知られる。各現場で一定の功績を残した社員たちが集められ、この冴えないと月電気の改革に精を出している。
結果的に激務部署として名を馳せてもいる。
伊坂はちょうど約一年前、五年目になりたての時に若手としては異例の抜擢を受けてケイキに配属になった。もとよりエンジニアとしては凄腕で有名だっただけに、配属には誰も驚いていなかった。
エンジニアになりたかったのに、人事部に配属されてしまった佐野からすると、トントン拍子に実績を積み上げていく伊坂は、何うらやましい存在でもある。
相変わらず無言のまま佐野を見下ろす伊坂の肩にポンと手を置く。
「な、遅くなりついでに飲みに行かない?」
不愉快なものでも見た時のように、伊坂の顔の筋肉がひくりと動く。
──わお、怖い。
伊坂は身長が高いだけでなく、体格もしっかりしているので、近くにいるとまあまあ圧を感じる。
きっちり筋肉のついている端正な体つきは、まるで韓国ドラマの御曹司のようだ。どういうわけだか運動嫌いのもやしっ子の多い十月電気ではかなり目立つ。
佐野は口元に軽い笑みを浮かべた。
「──伊坂ちゃん、イケメンだね。相変わらず」
伊坂の、凛々しく美しい眉がわずかにひそめられる。
伊坂は同期入社の社員だから、知り合ってもう丸五年になる。
けれど、佐野はこの同期のことが、少しだけ苦手だ。
なんせ、極端に口数が少ない上に、ほとんど表情がないせいで、なにを考えているかがてんでわからない。
円滑なコミュニケーションを重視する佐野からすると、かなりやりづらいタイプだ。
「ていうか、伊坂ちゃんこそ何しに来たの?」
「……なんでもない」
「なんでもないことはないだろうが! なんだよう。何かやましいことでもあんの?」
「ない」
冷たく言い切って、伊坂はぷいと顔をそらす。
その様子に、嫌な予感がする。わざわざこんな辺鄙なところに来てまですることが、あるのだろうか。
なるべく早くこの場を立ち去りたくなって、佐野は伊坂の肩をポンと叩く。
「ケイキも色々あるわけね。ま、今度、飲みに行こうぜ」
「……」
伊坂は険しい表情のまま、何も答えてはくれない。
不快なのか、戸惑っているのか、相変わらず分かりにくやつだと思いながら、郵便室をするりと抜け出す。廊下を半ばまで歩いた時、ふいに、伊坂が低い声でボソリとつぶやいた。
「──ここで取引が行われていると聞いた」
その言葉に佐野はぴたり、と足を止める。鼓動が一気に速くなる。
──まさか、あの件がバレているのだろうか?
後ろを振り向くこともできずに、佐野は動揺を押し殺して「なんの取引?」と応じる。
「……」
が、伊坂の答えはない。
言おうか言うまいか、逡巡しているのだろうか。
後ろ暗いことがあると悟られるわけにもいかず、佐野はなんとか作り笑いを浮かべてくるりと後ろを振り返る。
「取引って、やばいやつ? 経営企画がそんな汚れ仕事の調査とかやるわけ? 大変だねぇ」
伊坂は佐野の真意を図りかねているのだろうか。ほとんど表情を変えないまま佐野のことを見るめている。
佐野は声色を取り繕って平然と続けた。
「こっちでなんか手伝えることがあったら教えてよ。施錠は任せていいよな? じゃあな」
ひらりと手を振ってその場を離れる。
動揺を嗅ぎつけられないようにといつもよりもゆっくりと廊下を歩き、エレベーターにそっと乗り込む。不自然な動きにならないようにと意識しすぎたせいで、おもちゃのロボットのようにぎこちない動きになった。
細かく震える手でエレベーターの階ボタンを押して佐野は苦笑する。
焦りと緊張で、嘘のように体が熱い。
「バレてねえよな……?」
そうつぶやいてポケットの中に手を突っ込むと、紙切れがかさりと音を立てた。
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