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第5話 まずは、ありがとう

「そんで、作った資料ってこれなの?」 「ああ」 伊坂のきりりと引き締まった美しい顔には「何か問題でも?」と書いてある。 彫像のような高い鼻を中心に、左右対称にパーツが配置された貴公子フェイスは、自信に満ちている。 佐野はそれを見て、珍しく黙りこくった。 「……」 ──昼休みが終わり、あくびを噛み殺しながら仕事を片付けているところに伊坂からチャットが飛んできたのが三十分前。 研修用のスライドが完成したから見てほしいという旨を伝えられ、十四時ちょうどに小さな会議室に集まることになったのだ。 研修のことを伝えられてから三日も経たないうちにスライドが完成したとあって、さすがの優秀さに感心していたのだが──。 佐野は絶望的な気持ちで資料の投影されたスクリーンに目をやった。 「……」 映し出されたスライドには、ずらずらと小さな文字が並んでいる。 その姿、辞書の如し。 到底、研修用の投影資料とにはふさわしくない仕上がりだ。 が、自信満々な伊坂を前にそんなことを言えるはずもない。 「……何か問題があるのか」 反応しぐあぐねて不自然に黙り込む佐野に、伊坂がむっつりとした表情で話しかけてくる。 ──いや、問題しかないんだが。 本音をごっくんと飲み込み、佐野はにっこりと笑った。ややこしい人間関係を処理しまくって鍛えた、歯が光るタイプの鉄壁の人事部スマイルだ。 「──まずは、ありがとう」 「まずは?」 恋愛リアリティ番組で使い古されたお断り文句に、伊坂の眼光がギッと鋭くなる。 恐怖を押し殺し、佐野は笑顔のまま続けた。 「そう、まずは。めっちゃ早く作ってくれてまじ助かるし、この量すげーなーと思って」 「……言いたいことがあるのなら、はっきり言え」 まずは率直な感謝の言葉でワンクッション──と思ったが、どうやら逆効果だったらしく、伊坂の眉間には深いシワが刻み込まれる。 「いやいやー、まずは感謝の言葉を述べたくなるってものじゃん?」 「まずは、とはなんだ?」 「なんだって……」 「言いたいことがあるのなら、さっさと言ってくれないか」 「いやー……」 「早くしろ」 「ありがたいのは本当になんだぜ? 俺中途は全員エンジニアなのに、俺はエンジニアの職務経験もないし、こんなに詳しく書こうと思っても書けなと──」 言い終わらぬうちに、伊坂が大きくため息をついて「だから」と苛立った口調で言う。 「指摘することがあるならはっきりいってくれ。正直言って時間の無駄だ。ITの現場は結論ファーストだと教わらなかったのか」 ぴしゃりと言い放たれた言葉に、ひく、と自分の頬が痙攣するのがわかる。 佐野は、滅多に怒らない。イラっとすることくらいはあっても大抵のことは、まあいいかで受け流せる。 だが、今の言葉には珍しく怒りを覚えた。 エンジニア志望なのに人事に回されて早五年。それをコンプレックスに思うわけではないが、やっぱり現場配属になった同期や後輩たちをうらやましいと思う気持ちはある。 それでも、腐らずコツコツやってきたつもりだ。 ──その言い分はないんじゃないか? 貼り付けた笑顔はそのままに、伊坂への視線にはっきりと敵意を込める。 「あっそう? じゃあ言うけどさ、量、多くね? 研修って確か一コマ七十分だよな。こんなにたくさんあってどうやって収めるつもりだよ。テーマは十月電気で働くと言うこと、なんだからもっとざっくりでいいに決まってんじゃねえか」 「最初から十月電気がどういうところかわかった方が、現場では困らないだろう」 「いや、それにしても細かすぎるだろうが! なんだよこのページ数はっ! 部署ごとにページ分けてたら何時間あっても足りないだろっ。ここまで細かく書く必要あるか!」 “エンジニアと“ひと口にいっても、十月電気のエンジニアたちはかなり細かく部署分けされている。 基本的にはクライアントの業種ごとに区切りがありが、金融担当の部署、製造業担当の部署──といった具合に配属されていく。 だが、伊坂のスライドでは、部署ごとのクライアントの特性やら、必要なスキルセットやらが緻密に説明がしてある。 これだけの内容を調べ上げて、三日でまとめるスキルは確かに恐ろしい。 だが、断言してもいいが、こんなものを入社間も無く渡されて、読む気が起きるやつなんていない。 思わず声を荒げた佐野を前に、伊坂の眉間の皺がググッと深くなる。 「資料として配布もされる。あとで目を通してもらえればいいだろう」 ごく真っ当な指摘をしても受け入れる気のない伊坂に、佐野も限界まで遠慮がなくなってくる。 「いーや、神に誓えるね! こんなに細かいもん誰も読まねえってば! 中途とはいえ、みんな十月電気は初めてなんだぜ? いきなりこんなレベルの高い資料読まされてもついていけないってば!」 「……」 黙り込む伊坂に、佐野はため息をついた。 「言っておくけど、伊坂ちゃんみたいにやる気あって、頭も良くてなんて社員は滅多にいないんだぜ?」 「……」 伊坂の不満気な眼差しも、もはや気にする余地などない。 その目を負けじと睨み返して「とにかく」と続ける。 「こういうのはざっくりでいいんだよ! なんとなーく、十月がどう言うところか理解できて、モチベ上がって、安心できるような……ってもういいわ、これ俺がやってもいい?」 「必要ない」 「明日が篠原部長への提出日だ。これを提出する。講義は時間内に収めるように考えておくから問題ない」 「いやいや、待てって! せっかく合同でやるんだからもうちょっと──」 「失礼する」 伊坂は冷たくそう告げると、もう一秒もこの場にはいたくないとでも言わんばかりの毅然とした足取りで会議室を立ち去った。 「まじで……なに?」 あまりの横暴さにしばし呆然となる。 ムカムカと怒りの感情が胸に広がった。 伊坂というのは、あんなに頑なで話の通じない男だっただろうか。 確かに出会った時から口数の少ない、男ではあったけど──。 今の伊坂はただの横暴な、というかワガママなだけの男だ。 こちらの意見に耳を貸さず、自分の主張ばかりを性急に押し通す。 研修の時を思い出しても、そんなふうではなかったはずだ。むしろ、優秀なのに淡々としていて、みんなからの信頼を集めていたはずなのに。 「伊坂ちゃんも、変わっちゃったのかなあ……」 それは充分にありえる話だ。エンジニアとしての日々も、ケイキとしての日々も決して楽なものではないはずだ。心が徐々にすり減って、あんなふうになってしまうのかもしれない。 働き始めてたかが五年、されど五年。 佐野自身にもうっすら身に覚えのある変化だ。徐々に疲れ、最初の頃のように理想を追い求める気力はなくなっている。 だけど、と佐野は苦笑する。 珍しく熱くなってしまった。 会社の人間と、あそこまではっきりものはを言ったのは初めてだ。 佐野自身は人間が好きと言うこともあって、周囲にもそれが伝わるのか、基本的には人に好かれる方だ。万一、上手くやれない相手がいても、基本は波風立てずにやり過ごす。 余計なことを言って、目をつけられれば、便利屋業のことだってバレる可能性はある。 「あーあ、めんどくさい」 椅子をぐるりと回転させて、窓の方を向くとうざったいほどの晴天がブラインド越しに助けて見えた。

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