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第6話 危険な兆候

時計が二十一時を回ったのを確認し、そろそろかなと席を立つ。 さりげなく視線を巡らせて、フロアの端にある経営企画部のシマを確認したが、本日は皆帰宅したらしく、電気が消えていて、安堵を覚える。 念には念をと経営企画の勤怠ボードを確認しに行く途中、ひとつ手前の総務課から声をかけられた。 「佐野くん、今日も遅いね。どうしたの?」 声の主は総務課主任の白山智恵だ。白山は佐野の二年先輩で、若手の少ない人事・総務系の部署では数少ない同世代の社員だ。 白山は名前の通り色白で一見おとなしそうに見えるが、中身はバリバリの体育会系だ。 明るく面倒見が良く、佐野のこともよく可愛がってくれる。 「白山さん! 白山さんこそ、お疲れ様です。残業、代わりにやりましょうか?」 冗談めかして声をかけると、白山はあははと大きな声をあげて笑ってくれた。 「頼もしくなったねー、佐野くん。でも大丈夫! 今日は旦那が家事&育児デイだから目一杯残業できるのを楽しんでるってワケ!」 白山が明るく言い放つ。多忙でも楽しそうなのは昔からだが、出産後も変わらぬパワフルぶりに佐野は苦笑する。 「楽しんでるって……。ワーカホリックすぎません?」 「いいのいいの、たまにはやりきった! って思って帰りたいもんよ? 佐野くんも、子供できたら、タイムリミットなしで仕事できる世界線ってありがたいなあって思うよ?」 「そういうもんですか? 俺も結婚したらそう思うのかなあ」 「ってこれ、セクハラだ! ごめん、今の忘れて!」 顔の前で両手を合わせる白山に、今度は佐野が「別にセクハラじゃないですよ」と声を上げて笑う番だった。 佐野はゲイだから、結婚も子供も望めない。けれど、白山含む会社の人間は誰もそのことを知らない。 ゆえに、結婚が云々、子供が云々と言われても悪意がないのが明白なぶん、あまり気にはならない。 「仲良しの人の発言にまで、めくじら立てませんって」 「いえいえ、失礼しましたー。って、こっちまで来たってことは何か用事あった? 総務課案件?」 山田の問いかけにぎくりとして、とっさに経営企画の方を指差した。 「いや、伊坂ちゃん残ってないかなーって。ちょっと、二人で研修を担当することになってるんですけど、聞きたいことがあって」 「ああ、伊坂くんだったらもう帰ってったよ。ボードにも、ほら」 経営企画の壁にかけられたボードには、確かに【帰宅】のマグネットが貼ってある。 佐野は肩をすくめて笑った。 「ほんとだ。じゃ、明日出直します」 「ていうか、伊坂くんと二人で研修やんの? 同期同士ってこと? 楽しそう、めっちゃいいじゃん!」 屈託のない白山の言葉に、佐野は「そ、そうですね」と返す。 まさか、その同期とプチバトルをしたなんて、言えるはずもない。 時計を見ると、すでに五分以上立ち話をしていることになっていた。 白山にペコリと頭を下げる。 「邪魔してすみませんでした。俺も作業あるので、戻ります」 「はいはーい。お疲れ様ー。無理しないようにね! 仕事、頑張って!」 そう言って優しく微笑まれると、罪悪感でしくりと心が痛んだ。 佐野が今からすることは業務でも何でもないのに。 人事部のシマに戻り、課長の机からそっとパンツクマのキーを抜き出し、そっとフロアを抜け出した。 薄暗く狭い非常階段を音もなく降りて、郵便室へと向かう。地下のフロアは相変わらず冷蔵庫のように冷えている。 始めてからしばらく経つのに、いまだに郵便室の中に入る瞬間は緊張する。 誰もいませんようにと祈りながら埃っぽい部屋に入り、お目当てのドリンクサーバーに手を突っ込んだ。 紙の感触がかさりと指先に触れる。 ──また、入っている。 今週も依頼があったことに、少しだけ驚く。二週続けて依頼があることもなくはないが、基本は多くて月に三回がいいところだ。 ポケットに紙を忍ばせようとして、ふとある考えが脳を掠めた。 すぐに立ち去らなくてはいけないとわかっているのに、どうしても気になる。 周囲を見回してから紙片を取り出し、性急な手つきでスマホにQRコードを読み込ませる。 すると、画面には【依頼元:竹内康太】との記載がある。 「……前と同じだ」 同じ社員から立て続けに依頼がくるのは危険な兆候だ。なぜなら、その社員のいるプロジェクト自体が炎上──つまり一時的な機能不全の状態に陥っている可能性が高いからだ。 佐野は暗澹たる気持ちになる。 プロジェクトの炎上は人事の観点から言えば避けるべき事態だ。 そういうピンチを切り抜けてこそ一人前のエンジニアやコンサルタントだとする声もあるが、それは生存者バイアスのかかった意見でしかない。 過重労働の後に、休職や退職を選ぶ社員の数は決して少なくないのだ。 「困ったなあ……」 便利屋の噂が拡散しすぎているから、しばらく休業にしておきたいのが本音だが、それも難しいらしい。 「まあいいか」とつぶやいて、紙片を畳んでポケットに突っ込んだ。

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