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第11話 頼りなさげな横顔

冷たい風がびゅうと吹きつけ、酒とつまみでぱんぱんのビニール袋がガサガサと音を立てた。衣服の隙間という隙間から北風が吹き込み、その冷たさに身をすくめる。 「伊坂ちゃーん、ごめんな。俺んち駅から割とあるんだ」 「問題ない」 ブルブルと震える佐野を尻目に伊坂はまるで寒さなど感じていなさそうな顔つきだ。下町の風情を残したこの住宅街で、伊坂の存在はなんとなく浮いている。お忍びで庶民の暮らしを見にきたプリンスという感じの浮き方だ。 「……このなかに家があるのか?」 伊坂が周囲の家を見回しながら不思議そうに問う。見渡せる範囲にアパートやマンションの類はない。 伊坂の意を汲み取って、「あーそうそう」と続けた。 「一軒家なの、俺んち。両親がいきなり田舎に引っ込んじゃったからさあ」 「そうか。自由でいいな」 伊坂らしくない褒め言葉に、佐野は少しだけ驚いた。 「いいかぁ? なんか突然田舎暮らしに憧れて、父親の地元の古民家買って暮らしてんの。ほんと、テキトーな家族だよ」 事実、佐野の家族はかなりテキトーというか勢い任せの性格だ。そもそも、両親といえど父親の方は佐野と血縁関係はない。 佐野が中学一年生の時にシングルマザーだった母親が突如再婚した相手なのである。多感な時期だけに継父との関係構築はなかなか苦労した。正直、もうちょっとタイミングを考えて欲しかった感はある。 だが、伊坂の口ぶりから察するに、伊坂は伊坂で、色々大変なのかもしれない。都内にいくつものビルを持つ名家に生まれ、祖父の代から銀を務めていると聞く。 伊坂の兄も、その後に続くのではというのがもっぱらの噂だ。 ──そんな家に生まれたら、テキトーな家族が羨ましくなったりするのだろうか。 表通りを通りすぎ、古びた公園の角を右に曲がると、瓦屋根の小さな建物が目に入る。 どう見てもボロいその家が、佐野の生家である。 「寒い中歩かせてごめんな。ここ、俺んちだから。入って入って」 伊坂を居間に通し、ビニール袋をガサガサと漁る。 「伊坂ちゃん、ビールでいいの?」 酒やつまみを取り出すと、伊坂が険しい顔つきになった。 「まずは資料を見るんじゃなかったのか?」 「え? 見ながら飲めばいいじゃん。細かいこと気にすんなって!」 背中をポンと叩くと、伊坂に睨みつけられた。 「飲まねーの?」 「……」 伊坂は無言で机の上をコンコンと叩く。佐野はため息をついて、「へいへい」と言いながらPCを伊坂の目の前においてやった。 そして、レモンサワーの缶をぷしゅりと開ける。伊坂の呆れたような眼差しを感じたが、気にしない。資料を読むのは伊坂であって佐野ではない。 食い入るように資料を確認し始めた伊坂の横顔を眺めながら、レモンサワーをぐびぐびと飲む。自分の資料を見られている時の気分はなんとも落ち着かない。 そわそわと台所へつまみをあける皿を取りに向かった。 大皿やら箸やらを抱えてリビングに戻ると、伊坂が見たこともないような険しい顔でPCを見つめている。 恐る恐るその顔に声をかける。 「い、伊坂ちゃん……? もしかして、資料がやばかった感じ……?」 と聞くと、伊坂はさらに眉間の皺を深くする。 「……これで、いいと思う」 どすの利いた声で伊坂がつぶやく。 「えっなに? ほんとにごめん。……って、いいの?」 「いい。篠原部長の指摘事項は全て完璧に反映してある。話の流れも、情報の正確さも文句のつけどころがない」 伊坂は淡々とそう告げる。 「いやあの、でも、あなた怒ってますよね……?」 戸惑いを隠せず、伊坂の顔を指さすと、伊坂が珍しくばつの悪そうな顔をした。 ゆうに二分を超えそうな沈黙のあと、伊坂が意を決したように口を開いた。 「……わからないんだ。どのくらいの情報量なら人が理解できるのかが」 「え? 伊坂ちゃんでも、わかんないこととかあるの?」 意外すぎる一言にびっくりしながら問い返すと、伊坂はこくりと頷いた。その表情は伊坂らしくもなく困り果てている。 佐野はあっけにとられた。 あの伊坂が困っている。 いつも無表情で、感情に左右されることなく完璧に仕事をこなす伊坂。 そんな伊坂にも弱点があったのか。 ──というかもしかすると、有能すぎるのが弱点、なのか。 多分伊坂には、他人のわからないという感情そのものがわからないのだ。 伊坂の眉尻の少し下がった表情に、佐野は釘付けになった。いつもは取り澄ましている美しい顔が、今は何だか情けない。 それが、どういうわけか妙に魅力的に見えた。 ──こいつでも、こんな顔するんだ。 まずい具合に心臓がざわりと動きかけて、佐野は慌てて大声を出した。 「こ、コツがあるんだ!」 「コツ……?」 キョトンとした顔で伊坂は佐野を見つめる。 「人に物を説明するときのコツっていうか、考え方? 俺も別に自分で考えついただけなんだけど」 佐野は伊坂の手をぐいと引っ張って椅子から立ち上がらせる。 「なんだ?」 「いいから」 不審な表情を浮かべる伊坂を無理やりに玄関先へ連れていく。 「ちょっとここで待ってて!」 佐野は居間と廊下、階段やキッチンなどのあらゆる電気を消して回った。 そしてスマホのライトをつけながら、玄関先の伊坂の元へ戻る。 「ごめんごめん、お待たせ」 「……真っ暗だが」 「そりゃそうだよ、俺が電気消したんだもん」 ぼんやりと薄暗い玄関で、佐野は伊坂にぐいと体を近づけた。照れ臭さを追い払うように「例え話だからな」 と咳払いをする。同期相手に講釈たれるなんて真似はしたくないのに、伊坂のことをどうしても放っておけない。 「伊坂ちゃんは今、見知らぬ真っ暗な家の入り口にいます。この家の大きさも知らないし、何階建てなのかもわかんないし、家の中の作りも全然知らない。だらか、そのまま歩いたら迷子になるし、すっ転ぶかもしれません。オーケー?」 「……」 薄らぼんやりと見える伊坂は、佐野の真意をはかりかねるという表情を浮かべている。 佐野はその肩に励ますように腕を巻き付けた。 「でも、俺はこの家のことをよく知っている。だから、頼れるのは俺だけ」 「……」 「そんで、本題。伊坂ちゃんは、この真っ暗な家についた時にどこに真っ先に連れて行ってほしい?」 腕で、伊坂の顔を引き寄せる。その顔は分かりやすく、しかめっ面をしている。 「……どこ、とは?」 「居間なのか、キッチンなのか、トイレなのか、押し入れなのか、寝室なのか……。とにかく、どこに連れて行ってほしい?」 伊坂は眉間に深い皺を刻んだまま黙り込んだ。 佐野は口元に笑みを浮かべながらも不安になる。 ──こんな妙な例え話が、天才・伊坂に伝わるのだろうか? たっぷり三分間の沈思黙考タイムを経て、伊坂は重々しく口を開いた。 「佐野の家か?」 「はいぃ?」 想定外の質問に、佐野は素っ頓狂な声を出す。全然ポイントがずれているような質問に動揺しきりだ。 「いや、えーと……たぶん、他人の家。全然、知らないし、本当は知りたくもないかもしれない奴の家かな?」 伊坂は「そうか」とつぶやいて、続けた。 「居間だけでいい。他は別に、見たくもない」 ズバッと叩き出された正解に、佐野は「そうそう!」と声を上げた。 「それだよ! 伊坂ちゃん! 居間でいいんだ、居間だけでいいんだ! だから、研修の資料も──」 言い切る前に、伊坂は合点が言ったというような声を出す。 「そういうことか。だから、研修の資料も、メインどころだけでいいと? よく知らない会社の、細かい部分なんて知りたくもないだろう──ということか?」 「そう! そういうこと! だってさ、仲良くもない奴の寝室とか、トイレとか、押し入れとか──初めっから連れて行かれても困るじゃん? 友達だったら別だけど。だから、なんかああいう資料とかの教える系のやつって、細かいところはすっ飛ばして、全体感がわかるところだけでいいと思ってんだよね、俺は」 分かりにくい比喩が通じた喜びと安堵で、佐野はハイテンションに答えた。嬉しくて伊坂の肩を抱いたままぶんぶん揺さぶる。 「ていうか、さっすが伊坂ちゃん! 俺、こんなよくわかんない例え話通じないと思ってた!」 「よくわかんないと思っていたのに話したのか……」 呆れたように呟いて伊坂は苦笑した。 伊坂らしくもない笑のつく表情。佐野はその表情から目を離せなくなる。 いきなり動きを止めた佐野に、伊坂は「どうした?」と不思議そうに問いかける。 覗き込まれた顔の近さにどきりとする。 思いのほか、距離が近づいていたことに気がついて、佐野は焦って身を離した。 「っ、いや、なんもない、なんもない」 「そうか」 「俺、電気つけてくる!」 そう言って、佐野は慌てて踵を返した。 ──俺ってまさか、伊坂ちゃんにときめいてる? 佐野はゲイだ。けれど、社内恋愛なんてめんどくさいことはまっぴらごめんだ。 それなのに、せわしない鼓動の音が鼓膜に響いている。 避けがたい欲望の波に、心が飲まれそうになり、佐野はレモンサワーを一気に飲み干した。

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