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第16話 正体がバレた
時刻は二十三時。社員がいない時間帯を狙っ
て社屋に戻った。
期待どおり、人事課のフロアへは無人だ。
総務部やら経理やら周囲の部署を見回してもがらんとしていて誰もいない。
ようやく安堵して、課長のデスクの引き出しを開けた。
──あ、パンツクマじゃなくなってる。
新しいキーホルダーはいつも涙目の涙目子猫だ。
相変わらず可愛いのか可愛くないのか、何とも言えない。
その鍵を素早くポケットに押し込んで、佐野は廊下へと出た。
暗く狭い非常階段を慎重に降りながら、一週間前の会話を苦々しい気持ちで思い出した。
──『竹内さんのところへの人員補充? 実は断られたんだよな、最近は業務が落ち着いてきたからとか何とか言って』
『どうしてですか! 落ちついてきたなんて、そんなわけは……』
思わず声を荒げた佐野に、西は「落ち着け」と言った。
『こっちも交渉は続けている。続けているんだが……どういうわけだか竹内さんからも直々に連絡が入ったんだ。プロジェクト内で仕事のバランスを調整してもらえそうだから大丈夫かもしれないってな』
佐野はグッと言葉に詰まった。確かにあり得ない話ではない。あり得ない話ではないのだが──。
『本当なら……いいんですが』
佐野の真意をはかってか、西が「まあ、信じらんないよな」
『実際、清水さんって人はかなりクライアントに肩入れするタイプだから、メンバーの増員にはいい顔しないんだよなぁ。おまけに清水さんはパワハラ気味だし。竹内さんに圧かけた可能性もまあなくはない』
プロジェクトの実働費用は原則としてクライアントに直接請求される。つまり、メンバーが増えれば増えるほど、クライアント側の支払いは大きくなり、コストは増大することになる。
一部の超優良企業を除いて、クライアントは基本的には節約志向にある。その気持ちに応えようとするのはいいことだが、それが行きすぎるあまり、無茶なメンバー構成でプロジェクトを動かしてしまう事例は幾度となく見てきた。
佐野はうつむいて拳を握りしめた。焦りと怒り、無力感に支配され、ずしんと体が重くなる。
間違いなく、最悪の事態だ。
清水がメンバー増員に同意しないのは、クライアントへの配慮もあるだろうが、竹内が便利屋を使ったことへの報復の可能性も高い。
伊坂の話では、人事が竹内と面談をした段階では、清水はすでに竹内が便利屋を業務に使用していたことに気がついていた。それに怒り、経営企画にタレ込んだと言うわけだ。
その上での人員増員なんて、受け入れてもらえるわけもない。脅しの材料を手に入れた清水は、便利屋を使用したという事実を盾に、メンバー増員を断らせるように仕向けたに違いない。
佐野は悔しさと焦りで息が浅くなる。
竹内を助けるつもりで介入した便利屋の存在が、正当な支援の道を阻む結果になってしまっている──。
『おい、大丈夫か?』
西に肩を揺さぶられて、佐野はハッとする。
まずい。様子がおかしいと思われただろうか。
しっかりしろ!と心の中でつぶやく。ここで絶望して呆けているわけにはいかない。
なんとしても、竹内に救済できる道を探さなくてはならないのだ。
そうでなければ、と佐野の思考は不吉な方向に舵を切り出す。
──常川みたいに、死んでしまうかもしれないのに。
『おい、佐野! 聞こえてんのか? そんなに深刻になるな。大丈夫、竹内さんとも別に連絡がはついているし、今も交渉は続けているから、続報を待て。な』
そう言って西は佐野のことを気遣わしげに見た。
純粋な西の眼差しに、佐野の胸は罪悪感で苦しくなる。本当は、佐野はいけないのに。
便利屋なんてことを始めて、社員のことを助けられると調子に乗って──。その結果が、これだ。便利屋がいたせいでさらに追い込まれるような自体を作り上げてしまった。
苦い気持ちで一週間前のことを思い出しているうちに、階段が終わりに差し掛かる。
地下二階の非常扉を音を立てずにゆっくりと開くと、廊下の電気がパッと点った。
あれから一週間。毎日郵便室に来ては竹内からの依頼がないかを確かめているが、竹内からの依頼は愚か、別の社員からの依頼すら来ない。
もしかすると、もう潮時なのかもしれない。
便利屋の存在自体は口コミに支えられている。どこにも案内など存在しない。
便利屋の存在が清水などのマネージャークラスに広まってしまえば、依頼を投げる人間など存在しなくなる。
郵便室の扉をそっと開けると、中は当然のように薄暗い。
扉を背に、握りしめたスマホの画面をチェックする。ついに耐えられなくなって、便利屋のアカウントから竹内に連絡をしたのが今日の昼頃だが──返事はまだない。
焦燥が体をジリジリと支配する。西はああいっていたものの、竹内は本当に大丈夫なのだろうか。
「くそ……」
夢遊病者のようなふらふらとした足取りでドリンクサーバーへ向かい、乱暴な手つきでその蓋をこじ開けた。
右手を突っ込んで中をまさぐる。けれど、指先には何の感触もない。
ついこの間は、ここに何もないことが嬉しかった。満足感すら覚えていた。
今はまるで真逆の感情だ。罪悪感と焦燥感、不安に身体中が支配されている。
両手を入れて中身を探っても、やはりそこには何もない。
蓋を取り外して、中を照らそうとしたその時──。
「何をしている」
低く静かな──冷たい声が響いた。
「伊坂ちゃん……」
佐野は呆けたように呟いた。だが、佐野の胸には不思議と驚きはなかった。
伊坂は気づいているような気がしていた。佐野に、清水の話をした時から。
いや、ここで初めて伊坂に会った時から。
伊坂はつかつかとこちらの方へ向かってくる。
「何をしていると聞いているんだ」
佐野は諦念のこもった眼差しで伊坂を見つめた。言い逃れしようのないことはよくわかっている。
深夜の郵便室でドリンクサーバーに手を突っ込んでいる同僚なんて、これ以上となく怪しい。
「何してると思う?」
クスリと笑って伊坂の肩に手を置く。
「ふざけるな……」
「ふざけてないよ。いっつも俺にばっかり喋らせてずるいよ、伊坂ちゃん。俺は今、ここで何してると思う?」
ドリンクサーバーのある机に腰掛けて、佐野が投げやりにそう言うと、伊坂が心底嫌そうな顔をした。
本気で嫌がっていると、こいつはこう言う顔になるんだなあと、佐野はある種の感慨を覚えた。
それにしても、恋心とはなんて健気なんだろう。
こんな状況でも、伊坂の新しい一面を知れば嬉しいと思えるなんて。
伊坂は迷ったような仕草を見せた後、口を開いた。
「……便利屋は、お前なんだな」
「違うよ。何を根拠に」
佐野はヘラりと笑って見せた。
むろん、シラを切り通すことなどできないのはよくわかっている。
けれど、今この状況で自分がやったことを認めるわけにはいかないのだ。
──認めてしまったら、竹内は、他の依頼者はどうなる?
「便利屋は郵便室で取引をするんだろう。その機械が取引のツールというわけか?」
「……」
「お前は、何か依頼がないかを確認しよつとしていたんじゃないのか?」
「言いがかりだよ、伊坂ちゃん」
「じゃあ、何をしていたというんだ!」
佐野は驚いて体をびくりと震わせた。伊坂が声を荒げるところなど初めて見た。
いつも怒ったような顔をしているのに、本気で怒るともっと怖いんだなと思った。
伊坂は佐野から目を逸らし吐き捨てるように言った。
「……便利屋なんか続けたって、何の意味もないということがわからないのか」
──何の意味もない?
その言葉に反応して、佐野はぴくりと視線を上げ、伊坂を見つめる。
「……どーいう、意味だよ」
「そのままの意味だ。会社に本来対応させるべきことを、個人が勝手に気を利かせてその役割を買って出ている」
敵意のこもった表現に、佐野はカチンと来た。理解されない悲しみと怒りがじわりじわりと佐野の全身を支配する。
耐えきれず、剣呑な声を出す。
「だとしたらなんだよ? 会社がやんなきゃなんないことを誰かがやったら、会社が成長できないとかいいたいわけ?」
「そうだ。もともと、十月電気には人員のマネジメント意識がなさすぎる。人員が不足している現場には補充が入るべきだという意識を浸透させるべきた」
伊坂の言うことは確かに正論だ。会社が組織として解決すべき事柄を、個人間のやりとりで解決してしまっては、経営層はいつまで経っても危機意識を覚えないということがいいたいのだろう。
だが、会社がマネジメントに目覚めるまでの間に、いったいどのくらいの時間がかかるというのだろうか。その間に、いったい何人もの社員が心身を犠牲にしながら無茶な働き方をしなくてはならないのだろうか。
佐野は乾いた笑い声をあげた。伊坂の言うことは正論ではあるが、ただの綺麗事だ。
「じゃあそのマネジメント意識ってのはいつ上がるんだよ。いつになるかもわからないそれを待ちながら過ごさなきゃなんねえの? 誰がそんなにこの会社のこと信用できるっていうんだよ。助かってる奴だっているんだ」
言いながら佐野は後ろめたいものを感じた。竹内は結局便利屋のせいで人事からの支援を受けるのを阻まれている。
伊坂は佐野の内心を見抜いたように冷たく「今回の件はどうなんだ」と言った。
「便利屋を使っていたと言うことが弱みになっているんだ。わかっているのか?」
──そんなこと、お前に言われなくたってよく分かっている!
頭の中で何かがぷつんと弾けた音がした。怒りと悔しさが石を切って溢れ出す。
憤然と伊坂を睨みつけ、佐野は大声を放った。
「やらないわけには、いかないんだ!」
自分のやっていることが、危険なことだということも、会社のためにはならないと言うことも、本当はとてもよく分かっている。
未来で会社が変わると言うのなら、あとどれだけそれを待てばいいのだろうか。
「そうこう言っている間に、また、死んだらどうするんだ! あの時みたいに──常川みたいに!」
その名前を叫ぶと、伊坂が眉根をぐいと寄せた。
「みんな、あいつが死んで悲しんだら、それで終わりかよ……っ。みんな平気な顔で働いて、それだけじゃない、清水みたいな奴もいなくならない! じゃあどうしたらいいと思うんだっ……」
常川の亡くなった直接的な原因は、佐野も伊坂も本当のところは知らない。
遺族も会社も病死だったと言い張るが、常川には持病などはなかった。
過労が原因の突然死──または自死というのが、おそらくは真実なのだろう。
亡くなる少し前の常川の残業時間はゆうに百時間を超えていた。竹内にしたように、人事が手を入れようとした矢先の急死であった。
常川のことを思い出すと、佐野の心はたやすく黒々と塗りつぶされる。
追い詰められると言うことに気づいてやれなかった後悔と、取り返しのつかない事態への恐怖。それから、二度と会えないのだという底のない悲しみ──。
「お前はどうでもいいって言うのか?! 会社が将来変わるなら、今困っている奴がいたって放っておくべきだって言うのか?」
──常川は、内定式で一番最初に話しかけてくれた同期だった。
『お前も学部生? うおー、よかった! 今年院生多いって聞いて緊張してたんだよ。これからよろしくな!』
有名大学の学生ばかりに囲まれて、必要以上に緊張していた佐野は、それで一気に救われたような気持ちになった。
研修の時もクラスが同じで、毎日のように言葉を交わしていた。
現場に配属されてからは、お互い多忙で疎遠になってしまったが、落ち着いた頃に飲みに行こうと約束していて──。
なのに、もう二度とと会えない。
「どうしてあんな……かわいそうなことを……」
そう言うと、視界が一気にぼやけ、目を伏せる。冷静な頭の片隅で、伊坂はきっと呆れた顔をしているだろうと思った。
普段は覆い隠している自分の本音は、とてもじゃないけど聞いていられないほど幼稚で支離滅裂だ。
佐野は俯いたままかすれた声を出した。
「伊坂ちゃんみたいなやつにはわかんねえよ……」
伊坂は佐野のように感情に振り回されて判断を誤ったりしない。
本当の意味で仕事ができる人間とはそういう人のことを指すのだろう。
伊坂はきっぱりといった。
「ああ、わからない」
「そうかよ」と言おうとして、顔を上げて佐野は目を見開いた。
伊坂の硬くこわばったような表情は、傷ついているように見えた。
佐野はハッとして口を開く。
「伊坂ちゃん、ごめ──」
「ではお前は、自分が便利屋だと認めるということだな」
佐野の言葉を遮って、伊坂が睨むような眼差しを佐野に向けてくる。
「そ、れは……」
答えあぐねていると、尻ポケットに入れたスマホから、明るい通知音が響く。
──竹内だ。
画面には、便利屋宛のメッセージが入っている。
佐野はそれを見て我にかえった。
ここで認めてしまうわけにはいかない。明るみに出たら潔く会社を辞めようと最初から決めていた。
「ノーコメントだ」
そういうと、伊坂は明らかに敵意のこもった眼差しで佐野のことを見た。
そうして、踵を返し、大きな音を立てて郵便室のドアを醒めた。
竹内のメッセージは、便利屋のオファーを断るものだった。「大丈夫です」と突っぱねるメッセージをどこまで信用していいのかはわからない。
今川の、「佐野ちゃんはもっと要領いいと思ってたぜ」という言葉が唐突に思い出される。
要領がいいように見せているのは、実際は真逆の人間だからだ。
今どき、馬鹿げているような正義感やら情熱やらに足を取られて立ち尽くしている。
自分とは何と愚かな人間だろうと佐野は思った。
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