18 / 21

第18話 いよいよ本番なのに

研修室のある八階のフロアに到着し、佐野はスマホで時刻を確かめた。 現在は午前八時五十分。研修は九時から始まるが、研修室の中に入るのにはまだ早いだろうか。 躊躇いがちに足を進めると、研修が行われる部屋の前に、早くも伊坂が待機している姿が見える。 いつも以上にかっちりスーツを着込んだその姿は、たまらなく男前だ。 そういう佐野も、普段はしないネクタイを締めているが、伊坂のように決まってはいない。 「……」 「……お疲れ」 気まずい沈黙が落ちる。 郵便室でのあの一件があってからというものの、伊坂のだんまりっぷりは当初に逆戻りというか、完全に悪化している。 今となっては、お疲れの一言すら返してくれなくなった。 悪いのは自分だという自覚があるだけに、以前のようにめげずに絡むこともできない。 だが、ほとんど存在を無視されているのに近い状態はかなりこたえる。 それに、あの件から一週間。伊坂は一体いつになったら自分を告発するのだろうか。 てんで、この男の考えていることはわからない。元からそうなのだけど。 スマホの時刻をもう一度見ると、時刻は五十三分になっている。 開始までの時間は、PCを画面に繋いだり、マイクのテストをしたり──仕事があるふうにして過ごせばいいだろう。 「もう入る?」 促すと、伊坂は無言のまま頷いて、さっさと研修室へ入っていった。 こちらを振り向きもしないその姿は以前よりもずっと冷たく見えて、悲しい気分になる。 こんなはずじゃなかったのに。 資料を一緒に作った時のような信頼関係も、励ましあう空気ももうどこにもない。 伊坂が自分に弱音を吐いた夜のことなど、今となっては幻のような気すらしてくる。 入室した部屋は、研修期間らしい緊張感と期待感に満ちている。 PCやマイクのセットアップを終えて、ぐるりと会場を見回す。 対象となる中途入社の社員は全部で五十名弱。 佐野や伊坂よりも年が上の社員もかなりの割合で存在していそうだ。 こちらに刺さる視線に危うく飲まれそうになり、 深呼吸をした。落ち着けと心の中でつぶやいく。 マイクを握って、人事スマイルを浮かべて見せた。 「えー、本日は貴重なお時間をいただきありがとうございます。人事部の佐野です。本日は研修のプログラムである十月電気で働くということについて、というテーマを担当させていただきます。……と、いっても、ちょっとテーマが抽象的ですかね?」 笑い混じりにそう言うと、微妙に空気がほぐれた。 「今日研修とを担当させていただく私と伊坂ですが、十月では六年目の社員になります。まだまだ若輩ではあるんですが、丸五年、十月で働いた身としてわかることをざっくりとお話しさせていただきます。……ええと」 そう言ってスライドを展開させようとしているのに、画面が動かない。どうしたのだろう。 焦っていると、モニターの画面がパッとスライドに切り替わる。 ──伊坂の画面だ。 驚いて伊坂の方をを見ると、無言で頷き返される。 これを使え──ということなのだろう。 余裕のなかった心に安堵のような感情が広がる。 大丈夫だ。あんなにふたりで準備をしたんだから。 この研修だけは、なんとしても無事に終わらせてみせる。 「お待たせしました。十月電気とは、もとは電話機やワープロ、PCを製造するメーカーとして地位を築き、現在ではSIerとして、クライアント各社に最先端の技術を提供しています。皆さんはエンジニア部門で採用ということで、あっていますでしょうか? 違う方、いたら手をあげてください」 そう言って会場を見回すと、さざなみのように笑いが広がる。 よし、つかみはなんとかなりそうだ。 体の緊張がじわじわとほぐれていき、社員たちを観察する余裕が生まれる。 「十月電気が得意とする分野は何かご存知の方はいますか?」 二本目のマイクを取って、ちょうど目の前の席にいた女性に話しかける。 女性は少しびっくりしたような顔をしてからはにかんだ。 「ええと……人事や経理など社内システムの開発や導入……ですよね?」 期待通りの回答だ。佐野は愛想のいい笑みをさらに深くにして明るい声を出した。 「まさに! 正解です」 スライドを振り返ると、十月電気の強みのスライドに切り替わっている。 ベストなタイミングだ。 「十月電気の顧客の特徴としては日系企業、それも製造業のお客様が多く──」 口はなめらかに動き、流れるように言葉が出てくる。 あくまでわかりやすく、平易に話す。 これが十月での最後の仕事になるかもしれないと思うと、自然と力が入った。 「詳しい開発のプロセスやマネジメントについては、伊坂さんからお願いします」 自分のパートを終え、伊坂にマイクをバトンタッチした。 伊坂とほんの一瞬だけ目があう。その瞳が、佐野によくやったと頷いてくれているような気がする。自分の気のせいだろうか。 ほんの少しでも、伊坂の信頼を取り戻したい。そんな願望が生み出した幻想なのだろうか。 「十月電気のプロジェクトは短期かつ大型になる傾向があり、工数の管理を厳密に行う必要があり──」 伊坂の話は、早口だし、口調は堅苦しい。が、その内容は要領を得ていて分かりやすい。まず文句は出ないだろう。 前列のレースのカットソーを着た女性が、熱心に頷きながらメモをとっている。 佐野はおかしくなった。 ほんの少し前までは、その男は辞書みたいな資料を読み上げようとしていたんですよ、と教えてやりたくなる。 伊坂の研修スキルがこのレベルになったのは、間違いなく自分の貢献もあるだろう。 自分のことなど大して好きでもないが、伊坂に頼られた自分は悪くないと思えた。 伊坂の澱みのない講義を聞きながら、佐野は寂しい気持ちで俯いた。

ともだちにシェアしよう!