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来訪者

朝の騒々しさが落ち着いた頃、クロウの執務室の重厚な扉が開かれ、一人の男が姿を現した。 討たれた魔王の息子、ゼノン。 青年の姿をしたその魔族は、見る者の目を引く鮮やかな紫色の髪と、鋭くもどこか陰を帯びた同色の瞳を持っていた。 物腰は落ち着いているが、まだ成人したばかりの若い魔族だった。王家を示す黄金の角も、クロウのものに比べればまだ小さい。 ゼノンは部屋に足を踏み入れると、机に向かうクロウへ軽く一礼し、それからその背後に控える大柄な男へと視線を移した。 黒い礼装に身を包み、首に黒鉄の首輪を嵌められた、かつての世界の破壊者。 「……彼が、例の『英雄』ですか」 ゼノンの声は低く、酷く冷ややかだった。 「父を殺したことは、今はいいでしょう。僕は父のやり方には反対していましたからね。彼が討たれたことは因果応報であり、当然の帰結だと割り切っています。ですが……」 ゼノンはエリシオンの前に歩み寄ると、その端正な顔を歪める。肉親を失ったやるせなさと、遺族としての複雑な感情は、理屈では抑えきれない。 紫の瞳に、明確な敵意と憎悪が宿る。 「僕の愛する魔界の民。彼等の命を、その手で無慈悲に奪ったことは決して許されない。破壊され、焦土と化した各地の惨状を、貴方はどう責任取るつもりですか」 敗戦の痛手から未だ立ち直れぬ魔界の全責任を問うような、冷徹な追及。 しかし、責め立てられたエリシオンは、動じるどころか眉一つ動かさなかった。 主人の後ろでただ静かに背筋を伸ばし、一点の曇りもない青い瞳で、真っ直ぐにゼノンを見据える。そのあまりにも堂々とした、傲慢とさえ言える態度で、静かに事実を告げた。 「私がその手にかけたのは、魔王ただ一人である」 「……何だと?」 ゼノンが怪訝そうに眉をひそめる。 「私は魔王を討つためだけに、戦場の最深部へ直接転移させられた。道中の魔族の軍勢を払ったのは、おそらく私を送り届けた人間たちの軍であり、私がこの手で直接切り伏せたのは、お前の父である魔王のみだ」 「……少なくとも、嘘は言っていないようですね」 淡々と、しかし絶対的な真実として紡がれる言葉。 エリシオンにとってそれは、誇るべき戦果でもなければ、弁明でもなかった。ただ、そのように生み出され、そのように命を遂行したという無機質な事実の提示に過ぎない。 「民も兵士も殺した覚えはない。だが、結果として私の存在がお前の世界の民を脅かしたと言うなら、その責任は……」 エリシオンはそこで言葉を区切り、目を伏せる。自らの首に嵌められた黒鉄の首輪にそっと触れた。 「……そうだな。全ての責任は、今の私の所有者、クロウにある」 「おい、待て」 飛び火してきた、あまりにも斜め上の全幅の信頼。 それまで黙って戦況を見守っていたクロウが、怒りに目を見開いて睨みつけるが、エリシオンは「お前がそう言ったのだろう」とばかりに、微塵の疑いもない瞳で見つめ返してくる。 「ふ……っ、あははは!」 部屋を支配していた奇妙な主従の重苦しい緊張感を切り裂くように、ゼノンの高い笑い声が響き渡った。 先ほどまで復讐心と遺族としてのやるせなさに身を焦がしていたはずの青年は、腹を抱えんばかりにして笑っている。紫色の瞳には、先ほどまでの刺々しい敵意の代わりに、涙がうっすらと浮かんでいた。 「……ゼノン、何がおかしい」 クロウが机を叩き、これ以上ないほど不機嫌に低く唸る。しかし、ゼノンは降参するように両手を軽く上げ、まだ肩を震わせながら微笑んだ。 「すいません、クロウ。ですが……まさかあの『光の怪物』を、貴方がそこまで完璧に、それも妙な方向へ飼い慣らしているとは思いもしなくて」 ゼノンは視線をエリシオンへと戻した。 男は相変わらず、主人の怒りさえも至上の愉悦であるかのように受け止め、一点の曇りもない青い瞳でクロウを見つめ続けている。 「僕の負けです。父を殺した張本人が目の前に現れれば、どうしたって憎まずにはいられないと思っていましたが……これでは毒気を抜かれてしまう」 ゼノンは小さく息を吐くと、一歩後ろへ下がり、胸に手を当てて居住まいを正した。 「エリシオン。貴方が民の命を直接奪ったのではないという言葉、信じましょう。それに、クロウが貴方の身柄と責任のすべてを、負うのでしょう?」 「待て、文脈が違うだろうが」 「正直、貴方ほど他人に興味を示さない男が、そこまで彼の面倒を見るとは思いませんでした。ならば、僕からこれ以上言うことは何もありません」 そう言ってゼノンは、何か言いたげに口を開閉しているクロウに、いたずらっぽい視線を向けた。 「クロウ。その厄介な『所有物』の調教、せいぜい一瞬も手を抜かずに励んでくださいね。魔界の未来は、貴方のその……手腕に懸かっているようですから」 「……用が済んだなら、さっさと失せろ。俺は忙しい」 「ええ、失礼します。……少し安心しました。次会う時は『魔王』としてです。魔界将軍クロウ、父の時のように相談に乗ってくださいね」 ゼノンはもう一度可笑しそうに微笑むと、今度こそ執務室を後にした。 パタン、と重厚な扉が閉まり、部屋には再び二人きりの沈黙が訪れる。 クロウはギリ、と奥歯を鳴らし、未だに事の重大さを理解していない大柄な下僕を、殺気すら籠めて睨みつけた。 「おい、エリシオン」 「うむ。何だ、クロウ」 「……お前は本当に、余計なことしか言わないな」 「すまない。だが、私はただ、事実とお前への信頼を口にしただけだ」 悪びれもせず、むしろ褒め言葉を待つ子どものように真っ直ぐな視線を向けられ、クロウはそれ以上怒声を上げる気力さえ奪われていく。 不本意ながらも、その底なしの従順さと無垢さに、自らの支配欲がまた一歩、深く、甘く侵食されていくのを認めざるを得なかった。 ◇ 屋敷の重厚な玄関を抜け、霧が立ち込め始めた庭園へと歩を進める。 ゼノンは、自らの紫色の髪が涼風に弄ばれるのを構うことなく、ふと立ち止まった。振り返り、先ほどまでいた執務室のある最上階の窓を見上げる。 「冷徹な魔界の軍師、クロウ……」 その唇から漏れたのは、溜息よりも脆く、独白よりも甘い響き。 ゼノンは幼い頃から、誰よりも冷たい将軍としてのクロウしか知らなかった。 誰の侵入も許さず、誰の温もりも求めない。幼いゼノンの目にもそう見えていた彼が。 「まさか、このような形で……あの『怪物』を魔界に抱え込むことになるとはね」 脳裏に蘇るのは、思わず圧倒されるような存在感を持って控えていた、光の英雄の姿。首輪を嵌められ、全霊の従順を主人に捧げていた、かつての兵器。 ゼノンは、自らの白く繊細な指先を、冷たい霧へと伸ばした。 耽美で、物憂げなその横顔は、怪しく、そしてひどく脆そうに見える。 「力で縛るより、心を縛る方がずっと強い」 そう……本当に強い力は、力そのものではなく、力を持つ者をいかにして意のままに操るかにあるということを。 誰もが、怪物はクロウの首輪によって支配されていると思うだろう。 ……だが、ゼノンには違って見えた。 首輪で繋がれているのは怪物の身体だけ。心の方は、とっくに自ら差し出している。 ……いや。 あれは本当に支配なのだろうか。 あの冷たい男が、ほんの少しだけ笑って見えたのは、ゼノンの見間違いか。 「ふふ……本当に、愉快な光景でした。氷のようだったクロウが、あんなにも感情を露わにしていた。かと思えば、怒りながらも、決して追い払おうとはしないのですから……」 ゼノンは、自らの唇に、人差し指をそっと宛がった。歪で、愉悦に満ちた微笑。 「冷酷な軍師が、怪物の無垢さに、心が揺らぎ始めている。それは、力での支配よりも、遥かに残酷で、そして、美しい形かもしれません」 ゼノンは、軽い足取りで霧の彼方へと消えていった。 あの冷徹な軍師が、これからどんな顔を見せるのか。 ……少しだけ、楽しみにしながら。

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