5 / 8

1.LOCK/診断(3)

 ――先生?  ちがう。  節くれだった拳。  銀の腕時計。  ノータイの黒いスーツ。  厚みのある若い体。  先生じゃ、なかった。  硬い。  殴られたら、痛そうだ。 「入――……」  低い声が途切れた。  視線を上げた瞬間、目が合う。  相馬より若い。イオリより、すこし年上だろうか。  男の三白眼が、動かない。時折、下まぶたがピクリと揺れる。  イオリは、口角を動かすタイミングを逃がした。 「……入れ」  顔を顰め、僅かに目を逸らしながら、男はドアを押さえた。 「え、っと」  ……命令形だ。  イオリが固まったままでいると、男はドアをさらに押し開き、手のひらで押さえた。室内の白い逆光が、男の顔を影で覆う。  煙草と、知らないにおい。  目線だけを、左端へ。銀のドアプレートには、1311の数字。  首を捻り、相馬の顔を見る。薄い唇は、作り物みたいに閉じたままだった。  イオリはドアノブに張り付いた指を、ゆっくりと剥がした。  金属の冷たさだけが、指に残っていた。 「……十時から、診察の小倉です」 「イ――……」  低い声が、すぐ近くで落ちた。  初対面の男へ、力の抜けた笑みを向ける。  黒いスーツの男は、険しい表情で唇を引き結んだままだった。 「小倉さん、進んでください」  相馬の抑えた声が、肩を撫でた。 「……あ……はい、すいません」  イオリは、前へ踏み出した。  フローリングにきっちりと並んだ、二つの淡いブルーグレー。用意されたスリッパを履く後ろで、静かに空気が揺れる。  カチャ、と、開いたときよりもずっと静かに鍵が掛かった。 「驚かせてしまったかな」  奥から、穏やかな声。  ドアが開き、イオリの主治医、|瀬戸《せと》が姿を現した。  ネイビーの三つ揃えスーツの上から、清潔な白衣。微笑みは、いつも、口元だけ、柔らかい。  一年、いや、二年前からずっと。 「いえ、おはようございます、瀬戸先生」  自分の口元が少し強張ったのを感じながら、イオリは笑みを返した。  踏み出そうとした足が、留まった。 「失礼します」  相馬がイオリを通り越して、玄関に置かれた消毒液で手を清めた。他へ目もくれず、診察室へ進んでいく。 「|伊織《いおり》君」  心臓が跳ねた。  その呼び方は、いつだって、あたたかい。  それを、確かめに。  なのに――。  瀬戸の更に後ろ。廊下の奥に、人影がある。  瀬戸は一度ゆっくりと目を閉じ、再びイオリを捉えて、続けた。 「今、彼らのことは気にしなくていい」  ドアを押さえる男は動かない。 「は……はい」  掠れた声が漏れた。  微笑んだまま、瀬戸は一度だけ頷いた。 「ムサシ奥来い。邪魔だ」 「うっす」  ドアを押さえていた男が、誰かに呼ばれた。  ――むさし…?  唇が声も無く、三文字をなぞる。  一瞬、胸に小さく息がつかえ、イオリは視線だけ男へ向けた。  スーツは黒い。  腕や胸が厚い。  頭の位置が高い。  纏う空気が、重い。  ――違う。  イオリは、廊下の端へわずかに寄った。黒いスーツは、イオリにぶつからないように、丁寧に通り過ぎようとする。  鷹のような目が、またイオリに突き刺さって、しかしすぐに前を向いた。  診察室の入り口が、窮屈に見える。  彼の背中が、とても広いからだろうか。 「おまたせ、どうぞ」  瀬戸の声に、世界が清潔な白を取り戻す。イオリの唇が自然に緩んだ。  そのまま、ドアを潜る。入り口はいつもと同じ広さだった。

ともだちにシェアしよう!