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1.LOCK/診断(3)
――先生?
ちがう。
節くれだった拳。
銀の腕時計。
ノータイの黒いスーツ。
厚みのある若い体。
先生じゃ、なかった。
硬い。
殴られたら、痛そうだ。
「入――……」
低い声が途切れた。
視線を上げた瞬間、目が合う。
相馬より若い。イオリより、すこし年上だろうか。
男の三白眼が、動かない。時折、下まぶたがピクリと揺れる。
イオリは、口角を動かすタイミングを逃がした。
「……入れ」
顔を顰め、僅かに目を逸らしながら、男はドアを押さえた。
「え、っと」
……命令形だ。
イオリが固まったままでいると、男はドアをさらに押し開き、手のひらで押さえた。室内の白い逆光が、男の顔を影で覆う。
煙草と、知らないにおい。
目線だけを、左端へ。銀のドアプレートには、1311の数字。
首を捻り、相馬の顔を見る。薄い唇は、作り物みたいに閉じたままだった。
イオリはドアノブに張り付いた指を、ゆっくりと剥がした。
金属の冷たさだけが、指に残っていた。
「……十時から、診察の小倉です」
「イ――……」
低い声が、すぐ近くで落ちた。
初対面の男へ、力の抜けた笑みを向ける。
黒いスーツの男は、険しい表情で唇を引き結んだままだった。
「小倉さん、進んでください」
相馬の抑えた声が、肩を撫でた。
「……あ……はい、すいません」
イオリは、前へ踏み出した。
フローリングにきっちりと並んだ、二つの淡いブルーグレー。用意されたスリッパを履く後ろで、静かに空気が揺れる。
カチャ、と、開いたときよりもずっと静かに鍵が掛かった。
「驚かせてしまったかな」
奥から、穏やかな声。
ドアが開き、イオリの主治医、|瀬戸《せと》が姿を現した。
ネイビーの三つ揃えスーツの上から、清潔な白衣。微笑みは、いつも、口元だけ、柔らかい。
一年、いや、二年前からずっと。
「いえ、おはようございます、瀬戸先生」
自分の口元が少し強張ったのを感じながら、イオリは笑みを返した。
踏み出そうとした足が、留まった。
「失礼します」
相馬がイオリを通り越して、玄関に置かれた消毒液で手を清めた。他へ目もくれず、診察室へ進んでいく。
「|伊織《いおり》君」
心臓が跳ねた。
その呼び方は、いつだって、あたたかい。
それを、確かめに。
なのに――。
瀬戸の更に後ろ。廊下の奥に、人影がある。
瀬戸は一度ゆっくりと目を閉じ、再びイオリを捉えて、続けた。
「今、彼らのことは気にしなくていい」
ドアを押さえる男は動かない。
「は……はい」
掠れた声が漏れた。
微笑んだまま、瀬戸は一度だけ頷いた。
「ムサシ奥来い。邪魔だ」
「うっす」
ドアを押さえていた男が、誰かに呼ばれた。
――むさし…?
唇が声も無く、三文字をなぞる。
一瞬、胸に小さく息がつかえ、イオリは視線だけ男へ向けた。
スーツは黒い。
腕や胸が厚い。
頭の位置が高い。
纏う空気が、重い。
――違う。
イオリは、廊下の端へわずかに寄った。黒いスーツは、イオリにぶつからないように、丁寧に通り過ぎようとする。
鷹のような目が、またイオリに突き刺さって、しかしすぐに前を向いた。
診察室の入り口が、窮屈に見える。
彼の背中が、とても広いからだろうか。
「おまたせ、どうぞ」
瀬戸の声に、世界が清潔な白を取り戻す。イオリの唇が自然に緩んだ。
そのまま、ドアを潜る。入り口はいつもと同じ広さだった。
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