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4.BOXES/隣人(7)

「ねぇ」 「何」 「ムサシの……おん――」  恩人って、何のこと。  言葉が喉に詰まった。  スカーフの上から首輪に触れる。 「音楽、かけるか」  ムサシは前を向いたまま、ハンドルを握っている。  大学の同期達よりも、大人びた横顔。  外から射し込む光が、照らしてはすぐに逃げる。 「……いい」  黒いダッシュボードの上に、古い音楽プレーヤーがあった。 「それ」  色褪せたステッカーが、貼ってある。 「イオリに借りっぱの」 「……あげたんだよ」 「すき焼き食った日に」 「うん」 「まだ、使える」 「……ホント?」 「ああ」 「恩人って、これ?」 「それもだし。……全部。とにかく全部」  ふふ、と笑う。 「雑だなぁ……」  車は繁華街を通り過ぎる。道幅が広くなり、車の数が減る。 「あのさ、今更だけど」 「ん」 「一緒に卒業したかったよ、ムサシ」 「うん」  ムサシは、同意も釈明もしなかった。  窓から見える建物一つ一つが大きく、無個性になっていく。  遠くに、高いクレーン。天辺に赤い警告灯が光っていた。  海沿いの地区だ。あまり来たことが無い。 「事務所じゃないんだね」 「ああ」 「魚のエサになるの? 僕」 「違えよ。ギャラリーだ」 「ギャラリー?」 「画廊。客入れるとこ」 「単語は知ってるけど」  ムサシがハンドルを切った。車が倉庫の間へと吸い込まれていく。  灰色のブロックのような建物の中に、一棟だけ古いレンガ造りの倉庫があった。その前に黒いセダンが止まっていた。  ムサシはセダンの隣に車をつける。 「真壁サン、中か……」  車の電源を切ると、ロックが解除された。 「イオリ」  引き止めるみたいに、聞こえた。  振り返る。  ムサシは、煙草を取り出した。 「……一本だけ」 「うん」 「お前さ」  太い親指が、カチッとライターのスイッチを押し込む。  小さな灯が、険しい表情を照らした。 「……どういう関係」 「え、誰と」 「瀬戸サン」 「……先生のこと?」  ムサシの吐息。逃げ場のない煙が、車内に満ちる。 「ん」  言葉にしようとすると、指先が冷えた。  膝に視線を落とす。  足元は暗い。  瀬戸の声と視線が、耳に、肌に触れるように甦る。 「医者と……患者、だよ」 「変だろ」 「普通だよ」  煙草を持ったまま、ハンドルに凭れるように、深く項垂れた。  逆の手の指先が、トントンと速いリズムを刻む。 「ヤクザの仕事を……」 「うん」 「いや、仕事じゃない、お前の場合――」 「じゃあ、異常な患者なんじゃない」  まるで他人事のように、あっさりと。 「本当は、特別な患者って言えたら良かったけど」  我ながらなんて虚しい言葉だろう。  ムサシが顔を上げ、三白眼を見開いた。 「イオリ、お前」 「知ってるんでしょ、僕が――  男を好きだって」 「違う、俺が……知ってんのは」  煙草を揉み消し、顔を覆う。 「今日、……ゲイで……  モノだから……手ぇ出すなって  真壁サン……」  ムサシは顔を隠したまま、声を搾り出し呻いた。  イオリは明るく笑う。 「だからそれ、僕なんだって」 「でも」 「そろそろ行こうよ、ムサシ」  車のドアノブに手を掛ける。かご、とドアを開けた。  足を伸ばして、コンクリートに降りる。  ぬるい潮風が頬を撫でた。

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