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5.URGE/侵食(6)
男子トイレに入ろうとして、靴を履き忘れたことに気付く。
頭が熱い。
――僕は、何なんだろう。
「……何だ、寝惚けてんのか」
冷たい空気が、一瞬で気管に流し込まれる。
「え、あ、お、おはようございます」
裏返った。自分のものじゃないような声が出た。
真壁が立っている。朝だというのに、もう煙草を咥えている。
「通れねェ」
「ご……ごめんなさい」
慌てて通路の端に避けると、真壁はトイレの中へと入っていった。
靴を取りに戻ろうとすると、中から真壁の声が響いた。
「俺? ムサシ? それとも瀬戸か」
「え? な……何が?」
「オナネタ」
「はあっ⁉」
「目ェ覚めたか」
「からかわないで、下さい……」
けれどお陰で、イオリの熱は少し引いた。
「言えよ」
水の流れる音がした。手を拭きながら、真壁が出てくる。
「……靴、履いてきまッ」
襟を掴まれ、引き留められた。
「猫じゃないんですから……真壁さん」
「あ? タチだったのかお前」
「うぇっ⁉」
今度は、蛙が失敗したような声が出た。
「ネコ……です。多分」
「多分?」
「……抱きたいって、思ったことなくて」
「ああ、抱かれてえのか。分かるわ。ケツ弄ってるとな」
「それとは……ちょっと、違うんですけど」
「で、誰」
襟を引き寄せられ、真壁と顔が近くなる。
ムサシとは違う甘い香り。香水か、煙草か。
「た、タバコ近いです! 熱いって」
「あ? 根性入れてやろうか」
ぎぃ、と休憩室のドアが鳴いた。
「……何してんスか……」
ムサシの溜め息がやけに響いた。
「あー……通って良いッスか」
「こいつお前のことオナネタにしたってよ」
「なぁっ!」
「馬鹿言わねえで下さい……若」
眠たげに頭を掻きながら、ムサシはトイレへと消えた。
「……つまんねえな」
「そろそろ離してもらえませんか……真壁さん」
「ん」
解放され、ようやく靴を履き直す。
イオリが再び休憩室を出ると、事務室の扉が開け放たれ、真壁がパソコンに向かっていた。
「イオリ」
トイレの前に、ムサシが腕を組んで立っている。
「おはよ」
「はよ。……あのさ」
「なぁに」
「何かあった?」
「ぅぐっ」
息を吐くのと吸うのを、同時にやってしまった。
胸の奥にある、意識したことのない筋肉が引き攣った。
「……便所、行くのか」
行くなら、とムサシが通路を空ける。
「……ありがと……」
俯きながら、トイレに入る。
個室のドアを開き、腰を下ろし、頭を抱えた。
――ちゃんと否定すればよかった!
コンコン。
ドアの隙間から、黒いつま先がほんの少し覗く。
「あのさ」
イオリは身体を丸め、ドアの隙間を見つめた。
「オナネタがどうとか、お前、……無理しなくていいから」
「……」
ムサシのつま先は、動かない。
ドア越しに、煙草の残り香が届く。
「俺もジロサンも、大森サンも、男同士でって、よく分かんねェから、話、出来なくて。あの人、はしゃいでンだ」
「あ……は……はは……」
――ムサシは、良いヤツだ。
「お前は、組の人間じゃねえ。無理すんな。――なんかあったら、俺が守る」
でも、ヤクザだ。
「……そんな、……大丈夫だよ。っていうか、さ」
「ん」
「そこにずっと居られると、おしっこし辛い」
「あ……」
悪ィ、と呟いて、つま先が引っ込んだ。ドアの前から足音が遠ざかる。
溜め息が溢れた。
自分の腹の下へ、視線を落とす。股の間に垂れる、奇妙な外付けの臓器。
熱は、もうない。
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