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5.URGE/侵食(8)

「……はー。つっかれた」 「ハ……ハハ…真壁さんでも疲れることがあるんですね」 「そうだよ。だが、アイツらは強え。売れてるしな」 「……そう、なんですね…」 「さっきから微妙なツラしてんな、伊織」  肩がビクッと跳ねた。  喉がつっかえる。 「えっ……あ、え、そうでしたか? ごめんなさい」  真壁はイオリの肩を抱いた。 「なるほどな、ああいうのは好みじゃねえ、と」  胃液が、ぐっと迫り上がる。  粘膜が、焼ける。 「……すぐにそういう話に結びつけるのは、その……やめて、もらえませんか」 「今までその手の店は」  首輪に触れる。一度、呼吸を整えた。 「……お酒を飲むところ、なら」 「そうか」  イオリの肩を抱いたまま、真壁が歩き出す。 「……でも、セックスはしてません」 「それは、聞いてる」  そうだった。診察の場で、言ったのだ。  ――|処女《バージン》だと。  アヌスのタトゥーを見ながら。 「気に入らなかったのか」 「雰囲気に馴染めなかっただけですから、僕が悪いんです」  シャッターの閉まった店。  嘔吐の跡。  庇の下で寝る酔っ払い。  電柱の影で、スマートフォンを見つめるピンク色の服を着た少女。 「誰も責めてねえだろ」 「……」  少女が顔を上げて、こちらを見た。  準備中の生花店、その角を丁度曲がって、視線は途切れる。 「それと、お前  ムサシとどういう関係だ」  足が、止まった。  真壁が、一歩前に出る。  顎を引いたまま、目線だけを真壁の顔へ向ける。 「……高校、の……同級生です」 「ふうん」  足が急に冷えた。  既に真壁は別のことを考えている。そんな顔をしていた。 「行くぞ。店は直ぐそこだ」  振り返った真壁が、路地の奥を顎で示す。  歩き出すと、もうイオリの肩を抱かなかった。  赤みがかった木枠に、磨りガラスの引き戸。  仕込み中の札が掛かっているのに、真壁は気にせずガラガラと戸を開けた。  チッと舌打ちの音。 「ッたく、残りもんしかねえぞ、若」  カウンターしかない店内。厨房に、鉢巻を巻いた大森が立っていた。 「仕込んでるモンあるだろ」 「客に出す分が減る」 「ケチケチすんなよ、そんな大層な客は来ねぇだろ」  イオリは、恐る恐る口を開いた。 「……おはようございまーす」 「おう小倉。はよさん」 「えーっと…僕、やることありますか」 「おー、無いこたねえが。……いや、座ってろ」  煮詰まった醤油の、甘く香ばしい匂いが漂う。鍋の熱で、室内は暖かい。  真壁は一番奥から二番目の椅子を引き、腰を下ろした。他の椅子を見、真壁を見るが、何も言われない。イオリは、真壁の隣の椅子を引く。木の角が長い時間の中で磨り減った椅子。座面には、継ぎ接ぎがあてられた四角い座布団が乗っていた。 「ムサシは。一緒だったんじゃねえのか」 「もうすぐ来る」 「……途中で会ったお姉さん達を、駅まで送りにいってて」 「ほー」  目の前に、おしぼりと湯呑みが置かれる。  白いタオルが、ひんやりしていた。 「おはようございますっ、大森サン」  ガラガラッと勢い良く戸を開けたムサシが、背広を脱ぎ、シャツの袖で汗を拭った。  イオリはムサシのために椅子を奥へとずらしたが、ムサシは座らずに、腕捲りしながら厨房へ入った。 「……」  声を、掛けそびれた。 「洗いもんは俺、やります」 「あとだ後。すき焼きの残りがある。卵で閉じるとかどうだ。お前、好きだろ」 「あざっす、大森サン」 「葱切ってくれ」 「っす」  厨房の中で、二人とも手際よく動く。  出された湯呑みにそっと触れる。おしぼりと違い、こちらは熱々だ。指先で縁に触れて、ぬるくなるのを待つ。緑色の水面に、顔が写っていた。 「ムサシ……すき焼き、好きなんだ…」 「ん。まぁ、割りと。……お前の家で、食ってから」  小さく呟いたつもりだったのに拾ったようで、ムサシが手を止めないまま頷いた。 「小倉は、好きな食いモンは何だ」 「えっと……」  別に何でも食べる。好き、という言葉を出されると、選べなくなった。 「……グミ、とか」 「馬鹿野郎、居酒屋に置いてねえモン答えるな。そんなんじゃ腹膨れねえだろうが」 「……はい」  すると、三度引き戸がガラガラと音を立てて開かれた。 「おはようございますっ!」  戸が閉まる時も、ガシャンッとやかましい。二郎だった。 「おー、おはようさん二郎。お前そこな」 「ッす。入ります」  真壁が顎で示した。二郎はすぐに最も入り口側の椅子を引く。二郎の厚みで、通路が狭くなった。  大森が、おしぼりと湯飲みを二郎の前にも置く。それから、ムサシが小鉢というにはやや大きい皿をそれぞれの前に置いた。皿には、インゲンとニンジンの胡麻和えが盛り付けられている。 「マッサン、今日のぬか漬け、何」 「蕪と茄子」 「おー、良いね」  カシャッ、カシャッ、カシャッと聞き慣れない音がした。音の方を見ると、ムサシがテンポ良く卵を割っている。  しかも、右手しか使っていない。 「すご……」  ムサシの手が止まる。視線が一瞬合って、ムサシが逸らした。俯き、菜箸で卵を溶く。 「お、ムサシが照れた」 「……いや、違うっす」 「全員どんぶりで良いか」 「マッサーン! 大盛りで!」 「任せる」  イオリも慌てて顔を上げた。 「あっ、僕ご飯少な、め……やっぱり、ご飯半分で」  ほどなくして、三人の前に湯気の立つすき焼きの卵とじ丼が並べられた。小皿に白と緑、濃い紫の漬物が添えられる。  味の染みた焼き豆腐と、細く刻んだ牛肉、柔らかくなった葱とえのき。それらが半熟卵に抱きかかえられている。  甘辛い割り下を、たっぷりと含んで。 「いただきます」  手を合わせ、箸を取った。

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