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07.風邪

 制服が長袖から半袖に変わり、少し肌寒い朝。  昇降口で靴から上靴に履き替えていた叶多は、丁度登校してきた上野に声をかけられた。 「あれ……牧、マスクしてる」  自分の口元を覆い隠す白いマスクのゴムを耳に掛け直しながら、叶多は僅かに眉尻を下げる。 「ちょっと喉痛くて。テスト前だし、一応ね」 「ふーん、真面目だなぁ」  そんな会話をしながら肩を並べて教室への階段を上がっていると、不意に上野が真面目な顔をして叶多を見た。  やけに深刻そうな雰囲気に、叶多はぱちぱちと目を瞬かせる。 「……あのさ、牧って小野田にイジメられてないよな?」 「え?」 「だってずっと絡まれてないか? 牧もなんか困ってる感じだしさ」  以前、叶多が蓮といる所を見ていた上野が気まずそうに目を逸らしていたのを、叶多は唐突に思い出した。  どう答えようか叶多が考える沈黙を是としたのか、上野は構わず続ける。 「小野田ってマジで怖いよな。でかいし金髪だし。何考えてるかわからないし」 「……そう、かな」  ぽろりと、そんな呟きが叶多の口から溢れた。  しかしそれは上野には届いておらず、不意に階段の踊り場で立ち止まった彼に肩を勢いよく掴まれる。 「あれだったら俺が先生に言っとこうか?」 「え」  思わず叶多は真顔のまま上野を見つめ返す。  すぐにはっと我に返った叶多は、マスク越しにいつもの笑みを浮かべてみせた。 「いや、大丈夫だよ」 「本当か? お前、いつもそうやって何でも引き受けるだろ」 「えぇ……そんなことは……」 「あれ、牧ちゃんじゃん」  ない、と叶多が続けようとした瞬間、階段を上がってきた蓮が片手を上げる。  それと同時に上野が叶多からぱっと手を離して、「じゃあな牧!」と言い捨てながら颯爽と立ち去ってしまった。 (……逃げたな) 「え、今の何?」  上野の奇怪な行動に訝しんでいた蓮が、不意に叶多の方に顔を向ける。 「てか牧ちゃん、風邪引いてんの?」 「いや、」 「熱は? 測った? 今日、学校来て大丈夫?」 「喉痛いだけだし」  人の目も多い廊下を歩いているということもあり、叶多は小さい声でそう返した。  しかし蓮は特に気にする素振りもなく続ける。 「だからって無理すんなよ。あとから熱出るかもだし」 「……意外としっかりしてるんだな」  叶多がそう零すと、蓮は得意げに口角を上げた。 「まぁ? 自分のことは自分でしないとだからさぁ」 「へぇ……」  無意識に感嘆の声を洩らしながら、叶多は教室の扉を開ける。  いつも通りの、騒がしいクラスメイトたち。そのはずが、今日ばかりは少し視線が突き刺さるような気がする。  教室の端の方にいる複数の女子生徒が、こちらを見ながら内緒話をするように顔を寄せ合っていた。  それが視界に入った瞬間、叶多は自分たちが噂されていることを思い出した。そして今、その蓮が隣にいることにも。  ——もしかして一緒に登校してきたと思われてる? 「牧ちゃん?」  扉を開けたまま固まっている叶多を不思議に思ったのか、蓮が顔を覗き込んできた。  それに距離を取りながら、叶多は笑みを浮かべつつわざとらしい声をあげる。 「俺、今日風邪引いてるからさ。あんまり近づかない方がいいよ」 「はぁ?」  途端に蓮が顔をしかめた。  それから目を逸らしつつ、叶多は続ける。 「感染(うつ)ったら悪いしさ。最近せっかく勉強頑張ってるし、俺が迷惑かけたくないから」 「いや、それは牧ちゃんが教えてくれるからで……てかさっき風邪引いてないって自分で」 「じゃあね」 「おいこら」  制止の声を無視して、叶多はくるりと蓮に背を向ける。  その直前の蓮はいかにも不満そうな表情を浮かべていたが、叶多は素知らぬ顔で席についた。 —— 「牧、あのさぁ」 「ん?」  休み時間になり、上野が叶多に話しかける。  彼のスマホを覗き込みながら他愛のない会話をしていたが、ふと顔を上げた叶多は上野が居心地悪そうな顔をしていることに気がついた。 「……上野?」 「さっきからすごい小野田に睨まれてるんだけど」  上野の視線を追ってちらりと目をやると、自分の席にいる蓮が頬杖をつきながら盛大に眉を寄せているのが見えた。  そっと叶多はそれを視界から外す。 「…………」 「俺なんかしたかな」  上野が不安そうに呟いたが、心当たりがあるのは叶多の方だった。  朝に『距離を置く宣言』をしてからは、近寄ってくる蓮を叶多は何かと理由を付けては遠ざけていたのだ。  申し訳なさそうに叶多は眉を下げる。 「……ごめん、俺のせいかも」 「えっ何どういうこと」  それを上野には言えるはずもなく、誤魔化すように叶多は咳払いをした。 —— 「牧ちゃん、ちょっと勉強教えてくんね?」 「えっ」  放課後になるや否や、蓮がやけににこやかな笑みを浮かべて叶多の元へやってきた。 「いやでも、風邪が……」 「上野とはいつも通りだったよな? まさか牧ちゃん、オレにだけ離れろなんて言わないよな」 「………………」  蓮がわざとらしく大きな声で言うせいで、不本意にもクラスの注目を集めているのを叶多は肌で感じていた。  そんな中で断れるわけもなく、マスクの下で顔を引き攣らせながら叶多は渋々頷く。 「…………わかった」  叶多の前の席に座ってノートを広げていた蓮が、教室に誰もいなくなったのを見るとノートを閉じて振り返った。 「で? 今日のは何」 「何って」 「なんでオレだけ遠ざけるんだよ」  明らかに拗ねたような蓮の口ぶりに、叶多の眉がぴくりと動く。  突き刺さる蓮の視線から逃れるように、叶多は僅かに俯いた。 「…………噂、が」 「噂? ……あぁ、この前の?」  蓮は目を丸くする。 「まだ気にしてんの?」 「悪いかよ」 「放っとけって言ったじゃん。……そんなに嫌だった?」  僅かに下がる、声のトーン。  首を傾げた蓮の金髪が、さらりと揺れる。  それが目の端に映り、叶多は顔を逸らした。 「俺がいたら、邪魔になんだろ。女の子と遊べよ。……もう、俺に構わなくていいし」  叶多の小さな声が、閑散とした教室に溶ける。  校庭から聞こえてくる部活動の掛け声やホイッスルの高い音が、やけに遠く感じられた。 「牧ちゃんさぁ」  蓮が溜息をつくのがわかった。  小さく肩を揺らした叶多の顔を、蓮が覗き込む。  子犬を彷彿とさせるような、眉尻の下がった表情。それが何故か不安そうに見えて、叶多は思わず息を詰まらせた。 「オレがどうこうじゃなくて、牧ちゃんがどう思ってるか聞きたいんだけど」  表情とは対照的な穏やかな声音で、蓮が続ける。 「オレがいるの、嫌? ……嫌だったら、ちゃんと離れるよ」  反射的に叶多は顔を上げた。  机を挟んで向かい合う蓮と、目が合う。  開いていた窓からひんやりとした風が入り込み、2人の髪を軽やかに揺らした。 「……………………」  降りる沈黙。  シャーペンを握る手に力が入っていたことに、叶多は今更ながら気がついた。 「……嫌じゃ、ない」  絞り出した声は、情けなく掠れていた。  力なく叶多は項垂れる。 「嫌じゃないから、困ってんだよ……」  じわりじわりと、体温の上がるような感覚がする。  耐えきれずに叶多が机に突っ伏すと、頭の上から蓮の声が降ってきた。 「……そっか」  顔を見なくてもわかる。嬉しいのを押し殺すような、震える声。  がばりと身体を起こし、叶多は蓮を睨みつけた。 「そっかじゃねぇよ何笑ってんだ」 「別に〜? てか牧ちゃん耳赤いよ」  口元を手で覆い隠した蓮が、やけに楽しそうに目を細めている。  マスクの紐を耳に掛け直しながら、蓮の視線から逃れるように叶多はそっぽを向いた。 「熱! 出たから! 今!」 「そっかそっか。じゃあもう帰ろうな。送ってあげようか?」 「いらん!」  わざとらしい蓮の言葉に叶多は眉を寄せるが、蓮は気にすることなく笑いながら帰り支度を始める。  顔の火照りを感じながらも、叶多も教科書を閉じた。  

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