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第4話

 今は使われていない旧竜舎の中、オイルランプのオレンジ色の灯りが静かに揺れている。  一番手前側の竜房の中に即席で作られた木のベッドがあり、そこには赤い髪の青年が横たわっていた。 彼の呼吸は浅く早く、その体は燃えるように熱い。リュカは青年のベッドの前に座り込み、濡れ布を絞り彼の額にそっと置いた。  突然基地に赤い竜が現れ、リュカたちの目の前で青年の姿になって倒れてから丸二日。墜落したときの傷が原因で出た高熱がまったく引かず、彼は危ない状態だった。  それだけではない。ブランとともに傷を手当てしようと身体を改めると、おかしな傷が全身にたくさんあった。 鞭で打たれたような蚯蚓腫れや擦過痕、赤や青色の殴られたような痕、ナイフで切り付けられたような傷も残っていた。これらは、間違いなく人間の手によって付けられた傷だ。  この竜人は、どこかで人間による暴力を受けていた。それは間違いなさそうだった。  彼はどこから来たのだろう。誰から逃げてきたのだろう。彼は何者なのか。  問いただしたいことはたくさんあった。レグラント帝国のスパイという話も、誰かに脅されてこの基地に損害を与えるためにやって来たということも十分あり得るように思える。だがペアリングして彼の精神に触れたリュカにはわかった。この竜人は決して悪い人間でない。  だが名ばかりの『少尉』であるリュカには、そのことを証明することも後ろ盾になってやることも出来ない。 「……せめてもっと温かい場所で寝かせてやれればいいんだけれど……」 リュカは彼の火照った顔を覗き込み、唇を噛んだ。  隙間風が入り込んで冷え込みが厳しい旧竜舎は、病床の身にとっては酷な環境だ。だがここで看病をする以外の選択肢はなかった。竜人である彼は竜の姿になって暴れる可能性があると言われ、兵舎の中にも、幼竜たちがいる温かな竜舎の方にも入れることが出来なかったのだ。 「お~い、リュカ。メシ持ってきてやったぞ~」  旧竜舎の扉が開きブランが入ってきた。手に食事を載せた盆を持っている。 「ほらリュカ、メシ食え」 「ありがとうございます。後で食べるのでそこに置いておいてください」  リュカの言葉にブランを眉を寄せた。 「そんなこと言って、昨日も結局食わなかったじゃねえか。それにずっと寝てねえんだろう? 少しは休まねえと」 「寝てなどいられませんよ」  彼は、今まさに死と生の境を彷徨っているのだ。 「だけどお前が無理しても意味はないだろうが。部屋に戻って休め。今夜は俺が付いているから」  正直に言うとありがたい申し出だった。  この二日間、夜の間はずっと少年に付き添っていたので、昼間の数時間しか眠っていない。疲れもかなり溜まっている。だけどリュカは首を振った。 「いえ……。俺がそばについていてやりたいんです」  初めは父親に対するアピールになるという打算で始めたことだったのに、苦しそうな彼を見ていると、二年前に血まみれで死んでいったゼノの姿をどうしても思い出してしまう。居てもたってもいられなくなるのだ。 「しょうがねえなあ。わかったよ、お前が頭かたいってことはよく知ってるしな」 「……すみません」 「いや、いいよ。気が済むまで付いててやればいい」   仕方なさそうにブランが苦笑する。  ブランはリュカと同じで元竜騎士という経歴を持つ男だった。三十年前のレグラントとの戦争時には竜騎士として活躍していたが足に怪我を負い引退。それからは保竜官ひとすじという男だ。情はとても深い。 双子の兄のゼノを亡くしたショックで竜人に乗ることが出来なくなり絶望していたリュカを、見習いとして保竜官の仕事に誘ってくれたのもブランだった。 「何かあったら兵舎に来てくれ」  ブランはそう言って立ち上がると、リュカの肩をぽんと叩き、旧竜舎を出て行った。ふたたび静けさが戻る。  外はいつのまにか雨が降り出したようだった。しとしとと旧竜舎の屋根を雨粒が打つ音が聞こえる。さあっと冷たい空気が扉から小屋の中に入ってくる。  リュカは青年の身体に追加の掛け布をかけてやりながら、荒い息を繰り返す白い顔を見つめた。  竜人は人間とは肌質が違うようで、いくら日光の下にいても日焼けすることはない。目鼻立ちも彫りが深く、端正の顔立ちの者が多い。 「……ぅ……」  彼のうめき声にリュカははっと我に返った。  さきほどよりも熱が上がっているようで、額に触れると燃えるように熱い。 「また熱が上がってきたか」  竜人は人間よりも丈夫だとはいえ、これほど衰弱しているとあとは本人の体力次第だ。青年は荒い息を吐いていて、ときおり痙攣するように身体が小さく震えている。リュカは彼の手を握り締めた。 「……頑張るんだ。死んじゃ駄目だぞ」  リュカの声が聞こえたのかのように、ふっと彼が目を開けた。赤い瞳がこちらを見る。  リュカはその瞳にはっと息を呑んだ。高熱で潤んで細かく漣たつ赤い瞳は、まるで美しく貴重な宝石のようで、否応なしに心が惹きつけられてしまう。  一瞬状況も忘れて見惚れていると、彼の唇が小さく動いた。 「だれだ……?」  はっと我に返ったリュカは身を乗り出した。彼はずっと滾々と眠り込んでいたので、目を覚ましたのは初めてのことだったのだ。 「俺の名前はリュカって言うんだ。君の名前は? 何て呼んだらいい?」 「わから、な、い……」  青年が小さく呟いた。 「わからない? 自分の名前がわからないのか?」 「ああ……」 「家族は?」 「わからない……」  高熱で潤んだ瞳を不安そうに揺らしながら青年が答える。熱で朦朧としているのか、話しながらもときどき焦点が遠くなる。 「……わからないんだ……なにも……おぼえていない」  リュカはその言葉に考え込んだ。  記憶喪失ということだろうか。  彼の身体に残った数々の傷痕。この竜人は誰かに暴力を受けていたのは確実だ。だが記憶までないとは――。  とその時、急に青年の身体が震え始めた。 「……う……」  青年の顔が苦痛に歪み、蒼白になっていく。高熱で痙攣をおこしているのだ。 「しっかりしろ! 今医者を呼んできてやるからな!」  ブランを呼んだほうがいいのか、それとも衛生兵を呼んだほうがいいのか……と迷いながら立ち上がりかけると、彼の手が伸びてきてリュカの腕に触れた。 「いか、ない、で……」 「……っ」  彼の大きな手は、縋るようにリュカの腕に触れてくる。しばらく逡巡したが、リュカはもう一度椅子に座り青年の手を取った。  ブランたちを呼んできても、出来る処置がないことはわかっていた。もしここを離れている間に彼が――と思ったら、弱弱しい手を振り払うことがどうしても出来なかった。 「く、るしい……」  はあはあと喘ぎながら、青年が顔を歪める。その唇は白を通り越して青くなってきていた。堪らずリュカは彼の手を握り締めた。 「死んじゃ駄目だ」  血を吐き真っ白な顔で死んでいったゼノの姿が、目の前の顔と二重写しになる。胸が軋むように痛い。 「名前がないなら俺が付けてやるから……だから死ぬな!」 「……、……っ」  青年がはくはくと唇を動かした。何かを懸命に伝えようとしている。その姿は懸命に生きようとしているようで――。 「――ジーク。なあ、ジークってのはどうだ? この国の戦いの神様の名前だ。赤くてきれいで君ににぴったりな名前だろう?」  握っている指が動いた。かすかな力だが、それでもしっかりとした意志でリュカの手を握り返してくる。 「そうだ、生きろ……!」  彼の目尻から一筋の涙が流れた。釣られるように、リュカの瞳からも涙が流れる。  ――お願いだ。この人を生かしてくれ。死なせないでくれ――。  リュカは青年の手を両手で握りしめ、心の中で懸命に神に祈った。  全身に傷を負った彼はゼノでもあり、寂しい身の上は自分のように感じられた。  この世に神などいないことを知っている。でも神にでもなんでも縋りたかった。彼を絶対に死なせたくなかった。  手を握り締め、神に祈ってどのくらいの時間が経っただろう。気が付くと、青年の呼吸は静かになっていた。額に触れてみる。 「熱が……少し下がっている……?」  眠る彼の顔つきも、さっきとは違って穏やかだ。  旧竜舎の天窓から差し込んだ光が、彼の身体を金色の光で包み込んでいた。リュカは茫然と彼の寝顔を見つめた。  これほど美しい人を、そしてこれほどまでに美しい光景を見たことがあっただろうか。  ゼノが死んでから二年もの間、リュカの心は暗闇に覆われていた。だが今はどうだ。冷たい闇の中に、明るく温かな一条の光が差し込んでいくようではないか。 「ああ、神よ……感謝いたします」  リュカはそう呟き、両手を組んで首を垂れた。涙がとめどなく流れる。それは悲しみの涙ではなく、喜びの涙だった。  リュカは涙を拭い、そして彼の赤い髪をそっと撫でたのだった。

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