2 / 75
第2話 夢
「お兄ちゃんってどうしてそんなにお人好しなの?」
王都の平民街につつましく店を構えるパン屋。その厨房でいつも通りシリルはパン生地を伸ばす。傍らでは妹のアリスが焼きあがったパンにせっせと粉砂糖を振りかけている。これも普段通りの光景だ。
ただ、雪化粧を施されたパンはうれしそうだが、妹はどうやらお冠らしい。
「お兄ちゃんは今や宮廷魔術師さまで、癒しの天使なのに。パン生地こねさせられて笑ってるっておかしいでしょ。少しは驕り高ぶりなさいよ」
「いや、高ぶらないから。それを言ったらお前だって侍女としてもうすぐ宮廷に上がるんだ。そんな口の利き方はやめな。あと、癒しの天使って呼ぶのやめて。恥ずかしいから」
「有名人のくせに恥ずかしがらないでよ。大体、こんな話し方、お兄ちゃんにしかしないですよーだ」
ああ、なんて幸せな時間だろう。でもこの時間はあって当たり前のものなんかじゃない。
自分達のように親がいない状態で育った子ども達のうちの大部分がスラムに墜ち、過酷な労働を強いられる、あるいは犯罪に手を染めて命を散らしていることをシリルは知っている。
その点、自分達は恵まれている。パン屋の夫婦に拾われ、衣食住を与えられ、何不自由なく育てられた。そればかりか、シリルはジェラールという師も得られ、生きていくための手段として魔術を身に着けることまでできた。アリスもまた、ジェラールのつてで宮廷での勤務が決まっている。
そう、自分達の幸せは多くの人に助けられて作られてきたものなのだ。だからこそ思う。自分は魔術で人を救わねばならないと。救って恩を返すことが義務だと。
もっと言うなら、恩を返さないのは、罪だ。
「やるべきことはやらないとな。だからいいんだよ。これくらい」
言いながら滑らかな手触りのパン生地をくっくっとリズミカルに押す。
「アリス、手が止まってる。お前も早く……」
「やるべきこと、ねえ」
促す声に含みのある呟きがかぶさる。なに? と問うと、妹はシリルと同色の、朝焼けみたいな瞳を眇めた。
「前々から思ってたんだけど、それってお兄ちゃんの気持ちはどこにあるの? 義務じゃなかったらなにもしないってこと?」
「なにもっていうか。義務は果たすのが当たり前だろ」
変なことを言う子だ。取り合わずに生地をこね続ける。この作業にも時間制限がある。急がねば。
だが、そこで気づいた。
手に、ぱたた、と雫が落ちていた。いや、手だけではない。調理場全体が通り雨にさらされたように、濡れ始めていた。
しかも水滴は、調理台の上で丸められた生地の上にも容赦なく降り注ぐ。
「なに、これ……」
ああ、だめだ。余分な水分を加えたら美味しく膨らまないのに。
「シリル……! アリスが……」
そのとき、誰かが名前を呼んだ。行かないと、ほら、行かないと、と生地をこねる手を横から掴んでくる。この手は親代わりをしてくれたトミーおじさんだろうか。引っ張られながらも、シリルの手は止まらない。
ぱたぱたと滴る雫を受けながらなおもこねる。こねる。
こねて、妹を形作ろうというように。
――無駄だよ。アリスは、処刑されたのだから。
隙間なく降る雨の中で、誰かがひっそりと告げた。
うそ、と叫ぶ。そのシリルの手を打っていた透明な雫が、不意に赤に沈んだ。
妹の足を、肌を、そして命までをその身に取り込んだ炎が襲いかかってきた。
ともだちにシェアしよう!

