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第6話 火
あのとき、アリスは泣いてはいなかった。多分、泣くことすらできなくなるほど痛めつけられたのだろう。白かった頬を青黒く腫れ上がらせた彼女の目はからからに乾いていた。ただ茫洋とした眼差しのまま広場へとやってきた。痩せた体に不似合いな荒縄を腰に巻かれた妹は、近衛の手によって市街地の中央広場へ引きずり出されると、処刑台へと自ら歩かされた。
その足に靴はなく、遠目で見てもわかるほど足の裏は傷だらけで、ところどころ膿んで赤黒く変色していた。
ぎりぎり、と音を立てて妹の体が大木に後ろ手で括りつけられる。そうなっても妹の顔は変わらなかった。ただ自分を見上げる大勢の人の姿を無心に瞳に映しているばかりだった。
けれど足元に火が点けられ、その火が自身を包みこむのがわかった瞬間。
「私は、やってない! 陛下に毒を盛ろうとなんて、して、ない! 私じゃない! 私じゃ……。お兄ちゃん、助けて! お兄ちゃん! おにい、ちゃん……!」
アリスは、絶叫した。
光魔術師 は、要請がなければ術を使ってはならないとされている。でもこのときばかりはそんな規則を守ってなどいられなかった。これまで学んできた術のすべてで、シリルは妹を包む火を消そうとした。
憎らしいほど晴れ渡る空に雨雲を呼ぶ。ほどなくして、ぱたぱた、と音を立てて雫が降り注ぎ始めた。アリスをあぶる炎が身をすくませ、体を悶えさせながら蒸気を上げる。
ああ、これで助けられる。ほっとしたのも束の間、魔術の気配を察知した宮廷魔術師が群れとなって駆けてくるのが見えた。彼らを薙ぎ払おうと、シリルは必死に腕を振る。
これまで命じられない限り使ってこなかったけれどできるはずだった。だって、自分が使う術は人を助けるもの。人を救い、癒すもの。
アリスのことだって、助けられねばおかしい。
「え……」
なのに、妹の体を舐めていた火は再び燃え上がり、邪魔する者を薙ぎ払おうと起こした風も、唐突に掻き消えた。
「なぜ……?」
シリルは知っている。自分が王都でも屈指の術師であることを。今では師であるジェラールでも止めることはできないはずだ。そのシリルの全力を止められるのはただひとり。この国の最高権力者である王よりも貴ばれる人。宮廷の奥深くでこの国を影ながら守っていると言われる、人。
光魔術師(リゼル)の頂点に立つ、教皇だけ。
「なぜですか、教皇さま! 俺はこれまで尽くしてきたのに……なぜ!」
声を限りに叫ぶ。でも、答える声はない。ただ目の前で妹が燃えていく。春の訪れを喜ぶ小鳥のように軽やかだった声は、生物が最後に絞り出すしゃがれたものになり、やがてはそれも炎に呑まれた。
誰にも助けられることなく、燃え尽きた。
あの後の記憶が、シリルにはあまりない。
ただ闇に墜ちた心の内にはっきりと刻まれていたのは、必ず全員殺してやる、と繰り返し誓う、自身の強い呪詛の声だった……。
「お前、本当にそれでいいのか」
問いかけに哀切な響きが混じる。この人は師だ。皮肉屋で本心を覗かせることなどまずないが、それでも長く一緒にいたから心の底から出した声なのだとわかる。
「アリスはこんなこと、望んではいないんじゃないのか。あの子は優しいお前がなにより好きだったのだから」
師の声で胸の奥が重く軋む。けれどそんなもの、耳の奥にこびりついた妹の最期の声に比べれば軽い。
「優しい? 俺が? 俺は自分の意志で誰かを救いたいなんて思ったこと一度もない。全部義務だよ」
吐き捨て、距離を詰める。外套の奥に忍ばせていた短剣を鞘からさらりと抜き、揺り椅子に座る師に屈みこむようにして刃をかざす。
「訊かれたことだけを教えて。でないと……パウルは可哀想な野良犬になってしまう」
「小便ちびってた小僧がまあいっぱしの悪党のような口を利きおる」
ぬらぬらと光る刃を目にしてもジェラールは動じなかった。さすがだとは思ったし、ほっともしてしまったけれど、浮かんだ安堵をシリルは奥歯で嚙み潰した。
こんな弱い感情は、邪魔だ。
「早く。言って」
「最初から隠す気はない」
突きつけられた刃をものともせず、ジェラールは立ち上がる。壁際に置かれた古ぼけた本棚の前に立った彼は、つと手を伸ばし、一冊を抜き出した。ぱらり、とページをめくり、間に挟まっていた紙を引っ張り出す。戻ってきた彼は手にした紙をこちらに向かって無造作に突き出した。
「お前に妹を救うこともできない、やわな魔術しか教えられなかった私にできるのは、もうこんなことしかないのだから」
言葉が滲むのがはっきりとわかった。かさついた肌の上を外の雨みたいな雫がするりと滑っていくのも。
だめだ。そんなものを見たら、切っ先が揺れてしまう。
弱い自分を叱咤し、シリルは不自然でないように息を吐きながら短剣を鞘に戻すと、ひったくるように紙を奪い取った。
そこに記されているのは光魔術に対抗できる唯一の力を持つ男の名。
この男に会いさえあれば、望みを叶えられる。
「ありがと、ジェラール」
一言だけ零し、フードを再び目深く下ろす。慌ただしく背中を向けるシリルの後ろで、パウルが、くん、と鼻を鳴らした。
めったに鳴かないパウルが絞り出したその声に、目頭がじわりと熱くなった。
でも、なにがあろうと、振り返らないと決めたのだ。
パウルの毛並みを撫でることももうない。ジェラールに小突かれながら魔術の練習に励む日々もまた永遠に失われた。
扉を開けると、冬の空気を抱いた冷たい雫が顔面に向かい吹きつけてきた。
お前がやろうとしている行為が、どれほど神に背くものかわかっているのか。そう知らしめようとするみたいな勢いで、雨粒が向かってくる。
ああ、そうかもしれない。それでも止まるわけにはいかない。
自分は、この国を許せない。
王も、民も、なにもかもをこの胸に宿った憎しみで燃え尽くしてやるまで進まねば。
アリスのためにも、絶対。
シリル、とジェラールが呼んだ気がしたけれど、それはきっと風の音だ。
そう自身に言い聞かせ、シリルは背中で扉を閉めた。
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