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第31話 歌
ぎし、ぎし、と天井板が軋む。その音でわかる。彼が今、立ち上がって台所へ向かおうとしていることが。
その彼の姿を念入りに脳内に投影し、意識をその影へと集中した。よく磨かれた床に長く伸びる影。そこへ自分の体を重ね合わせるようにイメージする。
ずるっと体の中からなにかが剥がれる。と思ったと同時に、視点が一気に変わった。目に映るのは皿を食卓から台所へと運ぶ、ヤンの後ろ姿。下から見上げているからその姿はいつもよりもずっと大きく見える。ただここからだと皿の中身が空なのかどうかまではわからない。ちゃんと食べたのかな、と思ったときだった。ふっとヤンの体が傾いだ。手に持っていた皿が、からり、と音を立てて床へ落ちる。
「えっ……」
声を発したとたん、意識が体に戻った。慌てて梯子に手をかけ、駆け上る。音高く床板を上げて顔を出すと、彼は床に膝をつき、落ちた皿を拾っていた。
「どしたの、お前」
拾い上げた皿を重ねながらヤンが首を傾げる。心底不思議そうな顔をされ、かっとなった。
「だって! 今! あんた、倒れそうになって……!」
「え? あ、いや、違う違う。ちょっと躓いただけ。皿も無事。そんな大きな音だったか? 悪かったな、邪魔して」
「邪魔、とかじゃなくて、あの」
床には皿を落としたはずみでスープが零れてしまっていて、広がる白い水たまりにはシリル自身が映りこんでいた。それを見ていたら、たまらなくなってきた。
「俺が、食べなかった、から」
「はあ?」
胡乱そうに彼がこちらを見上げてくる。黒い瞳にはシリルを責める色は微塵もない。自分の小ささに耐え切れずしゃがみ込む。ごめん、と口にしかけたときだった。
ふっとヤンの口許が笑みの形に解けた。その顔のまま、口が動く。
聞こえてきたのは耳慣れない歌だった。
――満たせずとも、満たせずとも。何度でも戻しましょう。小麦の原が黄金に輝くそのさまをあなたにだけは見せましょう。
低い声がゆったりと空気を染める。意味がわからない。目を瞬かせると、歌いやめた彼がつっと目を上げてこちらを見た。
「歌ってみな」
「なに、あの、どういう」
「いいから。ほら、満たせずとも、満たせずとも」
「……満たせず、とも、満たせずとも」
一体、なにを考えているのだろう。意味不明だけれど、直前に覚えた申し訳なさがシリルの口を滑らかにした。
低い彼の声に続いて口ずさむ。不思議な旋律だった。物悲しくて、でも温かい。歌ったことなんて一度もないのに、なぜか懐かしくなる。
歌うシリルを見て、ヤンが目をふわりと和ませるのがわかった。
「小麦の原が黄金に輝くそのさまを」
「小麦の、原が、黄金に輝くそのさまを」
「あなたにだけは見せましょう」
「あなたにだけは見せましょう」
「……うん、そう」
満足げに彼が頷く。なに、と口を開きかけ、シリルは固まった。
床に横たわっていたスープの水たまりが巻き戻るように皿へと飛び込んでいった。ともに煮込まれていた芋も玉ねぎも、かけらひとつ残さずすべて元通り皿へと飛び込んでいく。
「これ……」
「じいちゃんが教えてくれた術。スープ零れたときとか、果物ぶちまけたときとか、簡単に元に戻せるってただそれだけの術。だけど俺、これだけはなんか好きなんだよ。古術にしては役に立つ術だから」
すっかり綺麗になった床を掌でさっと撫で、彼はスープ皿を持ち上げ、立ち上がる。
「お前にも使えてよかった。ちゃんと刻印、働いてるな」
満足げに言い、ゆったりと通り過ぎていく。
あんたといるのは目的があるからだ、飯をのんびり食べるためじゃない、なんて言い捨てたのにまったく責めもしない彼。それどころか、お前にも使えてよかったと笑いさえする。
そんな顔をされるとたまらなくなる。たまらなくて、つい……。
「それ、食べる」
「あ? でも冷めてるぞ。一度零れてるし。無理しなくても……」
「食べると言ったら食べる」
手荒く彼の手からスープ皿を奪い、テーブルへと戻る。ことり、と皿を置いて椅子を引いて座ったところで匙がないと気づいた。そこへタイミングよく匙が差し出される。
「ありがとな」
あんたが礼を言うのはおかしいだろう。そう思ったけれど言わずに匙を受け取った。
向かいの席にヤンも座る。彼の皿は空のようだったが、彼はテーブルに頬杖をつくと、シリルが食事をするのを眺め始めた。
「見るなよ」
「急いで食べて喉詰まったりしたら大変だから見守ってる」
また子ども扱いだ。やっぱりいらっとしたが、それ以上文句を言わずにシリルはスープを口に運んだ。
「美味い?」
美味くなんてない。あんただって一度零れたやつだって言ったくせに。そう言ってやってもいいはずなのに、黒い双眸に見据えられると、冷たいスープが温もって感じられ、皮肉を言う気が失せてしまう。
「……普通」
不愛想極まりない返事をしたにも関わらず、そっか、と彼は笑う。その笑顔にくすぐったさを覚える。
全然、意味がわからない。
そう思っているのに手を止めることができぬまま、シリルはスープを頬張り続けた。
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