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第34話 ……幸せになってほしい。
目を見開いて彼の顔を窺うと、彼はパンをちぎりながらなんてことのない口調で言った。
「じいちゃんの言いつけでね、隠しておかないといけなくてさ。でも、お前にやるから」
「なん、で」
「そろそろそれも使えるかもって思ったから」
言いながら彼はカップにお茶をなみなみと注ぐ。その口調はまるっきり世間話みたいでシリルを戸惑わせた。
「どうして、今?」
「どうしてって? 習得度見てできそうと思っただけ。お前、すごいな。見てればわかるよ。ちゃんと刻印と術式を繋げられるようになってる。癒しの天使ってのは見てくれだけじゃない、凄腕の魔術師だな。やっぱり」
「……やめて。その呼び方」
もはや苛立ちしか感じられない称号に顔を引きつらせつつ、シリルは手元の紙を食い入るように見つめる。
闇魔術の術式が理解できるようになってきた今ならわかる。目の前のこの陣がどれほど強力なものなのかが。ヤンの祖父が隠しておくようにと語ったのももっともだ。生半可な術者が使える類のものではないことが、見るだけで伝わってくる。
でもこれさえ使いこなせるようになれば、アリスに会えるのだ。
気力を奮い立たせるように息を吸い、シリルはテーブル上のカップを持ち上げる。が、一口飲んで、う、と呻いた。
カップの中で真っ黒な液体がとぷん、と揺れ、自分の顔を映した。
「なにこれ。めちゃくちゃ苦……。茶葉、変えたの」
「え、あ! こら、勝手に飲むな。それは俺の」
慌てたような手によってカップが奪われる。目を瞬くシリルの前に、お前はこっち、と別のカップが置かれた。そこからはここ数日ですっかり馴染んだ香ばしい茶葉の香りがしていた。
「あんたが飲んでるの、なに?」
「大人の飲み物」
にやっと笑ってヤンは黒い液体を美味そうにすすってみせる。子ども扱いはいつものことだ。面白くないし苛立つけれど、今はそれどころじゃない。手元の紙に意識を集中していると、なあ、と声をかけられた。
「妹と会ったら、なにを話したい?」
「え、話、す?」
言われるまで考えもしなかった。だが、確かになにを話すだろう。
どうしてこんなことになった? お前はどんな気持ちだった? まずはそう問いかけるだろうか。
渋面を作るシリルをヤンは目を細めて眺めてから、カップに唇を寄せつつ呟いた。
「俺はさ、お前にどうでもいいことを妹と話してほしいって思う。飯がうまいとか、春の匂いがするとか。一瞬先に、あれ? なに話してたっけ? って思うようなことをたくさん」
「どうして?」
「そういうのが積み重なって、幸せってのはできるんだと思うから」
「幸せってそんなのあんたこそ……」
……あんたこそ、どうなの?
瞬間、我を忘れて問いたくなった。
……こんな山奥にひとりで暮らして。闇魔術師 として命を狙われて。挙句に俺のようなやつに目をつけられ、ともに禁忌さえ犯した。あんたこそ、幸せになりたいって思わないの?
慌てて片手で口許を覆う。そうしなければ、口から問いが零れ落ちてしまう気がした。いや、それどころか。
……幸せになってほしい。
はっきりとした願望の形となって出てしまうとさえ、思った。
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