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第35話 マダ
「どうした?」
どうしたかなんて、こちらが訊きたい。こんなことを考えている時間なんてないはずなのに、意味がわからない。
わかっているのは、今、目を合わせたら確実に赤面してしまうだろうということ。
そんなのは絶対おかしいのに。どうして。
「シリル?」
「呼ぶな!」
とっさに声を荒らげると、彼の肩が揺れた。が、取り繕うこともできなかった。ごまかすようにテーブルの上の陣に目を凝らす。
そうだ。くだらないことを考えている場合じゃない。今必要なのはこの陣を記憶することだ。そうだ、それしかない。
自分を納得させながら、陣に顔を近づけた。と。
手元がいきなりふっと暗くなった。巨大な蝶がランプの前を横切ったかのように、二度、三度、光が明滅する。顔を上げたとき、完全にランプの火が消えた。
「なに……」
言いかけたところで口がヤンの掌に覆われる。闇に落ちた室内で触れた大きな掌に場違いに安堵しかけてから、シリルは息を呑んだ。
入り口すぐの場所に人影があった。ほっそりとしたそれは暗がりの中で青白く発光している。
どう見ても……ただの人間じゃない。
術によるものか、それとも妖魔の類か。そうっとヤンの手を外し、目を凝らす。けれど、人影を視界にはっきりと捉えたところで、シリルは立ち上がっていた。
がたん、とけたたましい音を立てて椅子が倒れる。
「アリス……?」
肩から落ちる銀糸の髪。こちらを見つめる赤い瞳。小ぶりながら形のいい鼻もまた記憶の中のそれと同じ。
見ればみるほど妹でしか、ない。
でも最後に見た姿とは違う。あのとき、妹は泣き叫んでいた。町内でも美人と言われていたその姿がまるで嘘のように身悶え、炎に舐められ、皮膚は焼けただれていた。
今目の前にいる彼女には火傷の痕など一切ない。つまりこれは生前のアリス。あるいは。
亡霊。
なにが起きたのかはわからない。わからないけれど、よろよろと足を前に出し、両手を伸ばす。目の前の彼女がするのは、お兄ちゃん、と微笑みかけてくれた妹とは違う、冷たく凍った表情だ。でも足を止められない。
「待て」
数歩も行かぬうちに、強い手に肩を掴まれた。それを振り払う。また掴まれる。なおも進もうとするが、強い腕が背後から抱きしめてくる。両腕で閉じ込めるように羽交い絞めにされ、暴れる。その自分達をアリスはただ見つめていた。感情の見えない目でまっすぐに。そして、唇がつと、動いた。
――マダ
なに、と言いかけた声を跳ねつけるように、妹の姿が掻き消える。絡みつくヤンの腕を渾身の力で振り解き、扉を開け放った。が、見えるのはただ、茫洋とした雪の原ばかり。
アリスは赤い長衣を身にまとっていた。あんな色合いであれば、月明かりにも映えるはずなのに、雪原はただただ冷たい面をさらすばかりだ。
「なあ! あんたも、見たよ……」
ね、と続けようとしたが、最後まで言えなかった。
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