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第38話 理由

「は……?」  くらっと視界が揺れた気がした。必死に息を吸うが、うまく空気が入っていかない。 「愛、なんて……」 「ね。馬鹿な人よね。そんなごまかしがきくわけがないのに。見ればわかる。あなたが彼の力をすべて奪い取り、我ら全員が束になっても敵わないほどの術をなせるようになったってことくらい。今のあなたは光も闇も、自由自在に操れる。しかもすべての代償はヤンが引き受けてくれる。もはやどんな制約もあなたにはない。まさに魔術師の理想そのもの」 「奪い、取る?」  今、この女はなんと言ったのだろう。 すべての力を奪い取って、と言わなかったか?  それは、誰から? 代償を押しつけて? 誰に?……ヤンに?  蘇ったのはあのときの彼の姿だ。床にスープをぶちまけたときの。あのとき彼は、なんでもない、と笑った。騒がせて悪かったな、といつも通りの軽い口調で謝ってさえきた。でももしかしたらあのときからもう……? 「異形化には激しい痛みが伴うとされています。彼のあの背中を見たでしょう。あんな状態で普通の顔なんてできるわけがない。あなたはそれに気づきもしなかったと?」  女の声には咎める響きがあった。けれどそれに言い返すことなんてできなかった。だって本当にまったく気づいていなかったのだから。  言われてみれば、あのときもそうではなかったか? 熊を殺してしまったあのとき。駆けつけた彼は真っ青な顔をしていた。状況に驚いての顔色だと思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。  ――飯食えって。お前はほんとにしょうがねえな。  でも、彼の顔には軽い笑みしかなかった。  いつだって、こちらを案じるような、そんな色しか、なかった。  あんな顔で笑いながら、彼の体はすでに侵され始めていたと言うのか? なのに、彼は黙っていた。シリルを責めもせず、食事を作り、あまつさえ魔術の手ほどきまでした。  どうして? どうしてそんなことをした? 「あいつ、体に障りが出てるなんてなにも。第一、これを言い出したのは、あいつ、で」 「そうね。おかしいですよね。おかしすぎて私には理解できない。でもこうなった今思うのは、もっと早く、カヌの家を見つけ出し、滅ぼしておけばよかったということです。そうすればヤンも生きながら異形に墜ちるなどという苦痛を味わうこともなかったのに」  陰る声音に息が止まる。格子越しに間近く女と目が合う。真っ黒なその目はヤンと同じ闇を抱いていた。 「光魔術師にはわからないでしょう。古から続く術を繋ぐ我々はしょせん捕食された側。新術と呼ばれる光魔術の祖はね、我々から術を奪って新術を興したのですよ。あなたも飲んだのでしょう? 光魔術の洗礼水を」  洗礼水。それは光魔術師(リゼル)となるために受ける洗礼の儀式で口にする聖水だ。それを受け入れることで精霊との間に盟約を結べ、光魔術を操ることが許されるとされている。だがそれがなんだというのか。 「新術の祖は、もとは力なき娘だったそうです。それが我ら闇魔術師、いいえ、神術者(ディヴァン)の男と恋仲となった。しかし神の術を手に入れたいと願った娘によって男は殺され、娘はその血から力を得た。あなた方が洗礼水と呼ぶそれは男の血を変容させ、複製し続けてできたものです。我ら神術者の力を奪い取るよう、(よこしま)(ことわり)が書き加えられたもの。だから我々は固まって生きることを選びました。もう二度と力を奪わせないために。なのに、カヌ家は我らから離反した」  この女の言うことがすべて真実とは限らない。でももし本当なら、自分達光魔術師はなんと罪深いのだろう。命を奪い、力を利用し、我がもの顔でのさばる。闇魔術師に憎まれても仕方がない。  ――お前は俺を殺しに来たの?  そして……ヤンも彼らの憎しみを理解していたのだ。初めて会ったとき、彼がああ言ったのも、闇魔術師を疎む光魔術師を警戒しただけのものではなく、同じ闇魔術師を恐れていたからこそ出たもの。  同胞であるはずのこいつらをこそ、彼は。 「イレーナさま」  ふっと女の目がシリルから逸れる。彼女の視線に引きずられるようにそちらを見ると、彼女同様、黒衣を身にまとった老人が立っていた。 「咎人を広間へ、と、長からのご命令です」 「そう」 「待って!」  長い黒髪をぱさりと背中へ払いのけ、彼女は格子戸から一歩退く。その彼女をシリルは呼び止めずにいられなかった。 「あなたは……ヤンとなにか個人的な関係がある人、ですか」  彼女の顔がわずかに強張ったのは気のせいではなかったろう。だが、彼女は元通りの凍った微笑を顔に張りつけ、ええ、と頷いてみせた。 「ヤン・デ・カヌは本来なら私の夫となるはずだった者。お互い物心つく前の取り決めでしたし、彼の一家はその後まもなく出奔しましたから、彼は知らなかったでしょうけれど」  言い捨て、身を翻す。その彼女の長い黒髪がもう何者の言葉も受け付けぬと言うようにきっぱりと背中で揺れるのを、シリルは呆然と見送ることしかできなかった。  ただただ、頭がふらふらした。なににショックを受けているのか、自分でもわからない。けれど、牢から引きずり出され、両手に縄をかけられながら、頭から離れないものがひとつあった。  それは、声。  ――俺は、シリルを愛している。  実際に言われたわけでもない言葉が、あの低く優しい声で繰り返し繰り返し囁かれていた。それをシリルはどうしても止めることができなかった。

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