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第45話 過去
状況にそぐわないのんびりした声が返る。かっとなって彼の頭をさらに揺さぶろうとする手に手が重ねられた。間近く目が覗き込まれ、それ以上言葉を出せなくなる。それくらい真剣な目だった。
「俺のほうが思ってたよ。もっと自分を大事にしてほしいって。お前は俺を助けてくれた恩人なんだから」
「は? 恩人? なに言ってんの」
「助けた側は覚えてなんていないって本当だな。癒しの天使だし、仕方ないか」
苦笑いとともにいまだ彼の頭にかけたままだった手が引き剝がされた。拒絶のようにも見える動きだ。でも、手から手に伝わってくる熱は、やはりどうしようもなく優しかった。
「俺ね、お前に助けられたんだ。癒しの天使って呼ばれてたお前に」
「嘘だ。そんなわけない」
反射的に首を振る。だってそんな記憶なんてない。彼だって一度も言わなかった。
「嘘じゃない。言わなかったのはまあ……お前が変わりすぎてたから。再会してすぐはほんとわかんなかった。同一人物って知ってからも、お前は癒しの天使である自分を捨てたいと思ってるようだったし、言えなかった」
息を吐き、ヤンは右腕をそうっとまくる。つるりとして鱗のない腕に安堵してしまう。それを悟られまいと唇を引き結ぶシリルの耳に、淡々としたヤンの声が滑り込む。
「三年前、王都へ納品に行ったとき、こっちの腕を怪我したんだ。馬車に突っ込まれてな。家具職人としてはまあ、致命的なやつ。それを癒しの天使が治してくれた。傷もすっかり消してくれてこの通り。覚えてない?」
確かに癒しの天使と呼ばれていた当時は、人々の怪我や病を片っ端から治していた。要請があればどこにでも駆けつけた。あまりにも駆け回りすぎてアリスに、お務めだからって無理しすぎ、少しは寝なさい馬鹿、と叱られるほどに。
だから彼が言うようなことだってあったのだろう。けれど。
「それがどうした! そんなの俺にとってはただの仕事だボケ!」
怒鳴り、シリルは彼の手を見下ろす。
彼の左手の甲にも銀色は浸食していた。
「そんなたった一度のことで? わかってんの? 異形化したらもう戻れない。魔術も使えない。やがて心もなくなっちゃう。得るものなんてなにもないんだよ。それなのに!」
なんで、こんなことをした? なんでなにも言わなかった? 吸い取られるだけなのにお互いに術を使えるようにするためなんて嘘をなぜついた? なんで責めもせず……。
ぐちゃぐちゃの気持ちのまま拳で彼の肩を叩く。ヤンはしばらく叩かれるままになっていたが、ややあって、いてーよ、と呟いてそっとシリルの手を止めた。
「仕方ないだろ。恩人で、憧れだった癒しの天使が目の前に堕ちてきて、しかも泣いてる。そんな姿見たらどうにかしてやりたくてたまらなくなる。まあ、俺が馬鹿だったってだけの話だよ。気にするな」
そうっとシリルの手を放し、彼は立ち上がる。壁際に備えつけられた棚からカップをふたつ取り出した彼は、暖炉前に戻ってきて、火にかけていた薬缶を取り上げた。注ぎ口からは細く湯気がたなびいていた。
「もうおしゃべりはいいだろ。とにかく暖まりな。外、寒かっ……」
「よくない。黙らない」
薬缶を持ち上げる手、鱗のない右手をぎゅっと強く引っ張ると、ヤンが慌てたように薬缶を暖炉に戻した。
「危ないって! 熱湯かかる……」
「かかっていい。むしろかけられたい」
ぎゅっと彼の腕に両腕を巻きつけ、頬を寄せる。その自分の鼻先になにかが香った。すん、と吸い込むと目頭が熱くなった。
木の香りと、ほのかな汗の香り。体を繋いだあの日に嗅いだ、同じ香りがした。
「俺のせいで痛みを与えてしまった。だから、熱湯かけていい。俺も痛くなりたい」
「……冗談でもそういうこと言うな」
「あんただって冗談で言っちゃいけないこと、言った」
吐き出すように彼の腕に向かって声を放つと、俺が? と心外そうな声が降ってくる。我慢できずシリルは顔を上げた。
「ただ愛してただけ、禁忌を犯すつもりはなかった、って」
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