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第53話 朝なんて来なければいい。
王都まではここから三百リール。馬で五日の距離だ。三月九日までにと考えるとすぐにも出ないと間に合わない。しかも自分達はどちらもお尋ね者であり、楽しめるような道行きでは決してない。にもかかわらず、ヤンは楽しげな態度を崩さなかった。
「潜伏生活には慣れてるからな。お前とは年季が違うよ」
野宿もなんのその。笑って、腕の中にいるシリルを抱きしめて、彼は眠る。それこそただの旅行のように愛おしそうにこちらを見る。
……だから忘れてしまいそうになる。
王都まで残り一日で着くという夜、目を覚ますとヤンの姿がなかった。着せかけられていた外套の前を掻き合わせながら彼を探し歩くと、月光に照らされた川原にヤンの背中があった。岸にはまだ雪が残っており、川へ向かって伸びる彼の足跡だけがまっすぐに刻まれている。そっとその足跡に添うようにして足を進めたとき、彼がさらりと上衣を脱いだ。そのまま左腕をざばり、と川へと差し込む。その彼の右手に光るのは……短剣。
「ヤ……っ」
呼びかける間もなく、右手の刃は左腕に当てられる。川音で音までは聞こえない。だが、ざりり、と鱗を剥ぎ取るような鈍い音が聞こえた気がした。
ごうごうと鳴る川音に低く呻き声が混じる。流れ落ちた深紅が月光に輝く川へと滴り落ち、川面を穢す。
慟哭する彼に、その震える背中に、即座に飛びつきたくなった。でも……できなかった。
もしも今、飛びついたら、彼は無理をして笑おうとするから、絶対に。
慌ただしく踵を返し、シリルは走る。まだうっすらと火種の残る焚火の前に座り、火を起こし直す。強張った手で荷物を漁り、片手鍋を引っ張り出す。茶を沸かそうとして気づいた。
普段使いの茶葉のほかにもう一種類、粉を詰めた缶がある。蓋を開けて香りを確かめ、瞠目した。
闇魔術師 の襲撃を受けた夜、彼が飲んでいたものと同じ香りだった。しかもこの香りを、この粉がなにかを、自分は知っていた。
「これ……」
これは王都にもあるものだ。痛みを和らげる粉薬として使われている黒梓(くろあずさ)を煎じたもの。湯で溶かして服用することもある、もの。
――大人の飲み物。
にやっと笑った彼の顔を思い出し、シリルは大きく首を振る。
なんで気づかなかったのだろう。あのときはもう、痛みを覚えていたのだろうに。なんで。
自身の鈍さに吐き気がする。でも涙するのは嫌だった。乱暴に水袋から鍋に水を注ぎ、粉を振り入れる。
つんとした癖のある香りが鍋からゆらりと立ち上がり始めたとき、足音がした。振り向くと先程までの様子をまるで匂わせない整えられた装いでヤンが立っていた。シリル、と笑いかけてきた彼の顔が笑顔のまま止まる。
「目、覚めて。お茶飲んでた」
その笑顔を引き継ぐようにして笑い、シリルは沸き上がったものを鍋からカップへ移す。
「ヤンも飲んで。寒かったよね」
何気なさを装い彼に差し出すと、彼はゆっくりと焚火へと歩み寄ってきた。そのまま無言で背中を包むように抱きしめてくる。零れる、と笑い声を作って言うのと、やだなあ、と掠れた声で言われたのは同時だった。
「もうすぐ旅終わっちゃうのが悔しくてたまらなくなる」
旅行じゃない、と以前の自分なら言う。でも同じ気持ちだった。だから答える代わりに彼の体にゆったりと背中を預けた。朝なんて来なければいいと願ってしまう心を止められないままに。
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