55 / 75

第55話 犯人

 よろめきそうになりながら抱き留めると、パウルは鼻を鳴らしながらシリルの手を舐めた。温かくざらついた感触に離れていた時間を忘れそうになった。  でも、時間は確実に流れている。 「来たか」  こつり、こつり、と音を立てて近づいてくる足音に、シリルにまとわりついていたパウルがすっと離れた。 「本当に来るのだな。まあ来てもらわねば困るわけだが」  最後に会ったとき、小さな老人だなと思った記憶が蘇る。目の前に現れたジェラールは、そのときよりもさらに小さくなったように感じられた。  感傷に浸りそうになるシリルの肩にヤンの手が置かれる。そのヤンをジェラールの黄色く濁った眼球がつと捉えた。 「ヤン・デ・カヌか。君の祖父、ザラムには世話になっていたよ。孫がいるという話も聞いていた。彼が亡くなって一年、か」 「俺も聞いていましたよ。あなたは祖父の客だったとか。毒を頼まれていたんですよね?」  穏やかな話し方ながら、随所に緊張が染みこんだ声でヤンが問う。その彼を、ジェラールは瞼に半分塞がれた瞳で見返した後、ああ、と頷いた。 「言い訳をするつもりはない。私は人を殺める仕事を請け負ってきた。光と闇は分かつことはできん。闇で救われる人間だっている。だからこそ光魔術では救えないものも零さず、この手で救ってきたつもりだ」  ――いいか、シリル。魔術は誰かの幸福のためだけにある。命を、幸せを守るためだけに使わねばならない。それだけは忘れるな。  かつてジェラールはそうシリルに説いた。あのころの自分はそれを疑いもしていなかった。ジェラールは皮肉屋だけれど優しい人だったから。捨て犬だったパウルを躊躇なく屋根の下に入れ、自分の息子のように可愛がるようなそんな人だから。なのに、その人が同じ口で、人を殺してきた、と言う。  でも彼がなにをしてこようと、シリルは咎められない。だって、妹を失った自分だってずっと思っていた。魔術で救えるものなんてないと。ただこれだけは確かめねばならない。 「ジェラール、答えて。アリスの事件とあなたは……関係がある?」  ジェラールは表情を変えはしなかったが、杖を掴む手に力が籠ったのを見逃しはしなかった。 「毒を、アリスの部屋に仕込んだのは……」 「私だよ」  呼吸の仕方を一瞬忘れた。聞いた答えを耳が拒否したがる。必死に空気を取り込もうとしながらシリルは一歩彼に詰め寄る。 「どう、して? それも誰かが望んだから? でも、アリスがあんなふうに殺されることで誰に得がある? アリスは一介の侍女に過ぎなかった。それを……」 「光がなければ、私はこんなことを引き受けたりしない」  揺るがないその態度に怒りが噴き上がった。足音荒く彼のそばに駆け寄り胸倉を掴もうとして……止められた。 「じゃあ、あなたに毒を仕込む手立てをするよう命じたのは誰ですか? あなたは信念を持って手を汚したようだ。だとしたら秘すことなどないでしょう」  シリルの手を押さえこみながらヤンが問う。暴れたくなったが、憤りを抑えながら睨むと、ジェラールは初めて動揺するように目を逸らした。 「さすがにザラムの孫だな。容赦ない。手を汚すなら最後まで汚れろ、いいやつになろうとするな、とあいつに怒鳴られたときを思い出したよ」 「祖父が、そんなことを?」  ヤンの腕の力がわずかに緩む。ああ、とジェラールは無表情で頷き、近づいてきたパウルの頭を撫でた。 「ザラムが闇魔術師(オブスキュリティ)から離反したのは、闇魔術を崇高なものとして扱うことに違和感を覚えたからだそうだ。黒いものはどこまでいっても黒いと感じたから。けれどどんなものにも存在意義がある。それを示したかったとザラムは言っていたよ。そして、私に毒を渡しながらこうも言った。誰かの幸福のために誰かの不幸もその身に刻めと。――シリル」  名前を呼ばれ、ヤンに腕を掴まれたままジェラールを睨む。が、そこでシリルは瞠目してしまった。ジェラールがゆったりと顔に笑みを浮かべたために。  それは、魔術を指南してくれていたときと寸分変わらぬ優しい笑顔だった。 「私は刻むつもりでいる。アリスの不幸も。お前の不幸も。この国のために」 「国って、あいつの……国王のためって、こと?」  冗談じゃない。どんな事情か知らないがそんなこと許されていいわけがない。  我慢できずヤンの腕から腕を取り返そうと身をよじった。が。 「ちょ……っ! どこへ!」 「ついてこい」  ジェラールの足は家の奥に向けられていた。意表を突かれて声をなくすと、背中を向けたまま彼は言った。 「教皇さまのもとへ案内する。続きはあの方に訊け」  教皇。それは光魔術師(リゼル)の頂点に立つ魔術師に与えられる称号だ。だがシリルは教皇の姿を目にしたことがない。おそらくこの国の大半の魔術師がそうだろう。宮廷の奥深くに座し、国王へ忠言する高貴な方。代替わりするとお触れは出されるが、特別な式典は行われず、ただ密やかにこの国のために力を使い続ける神に近い者。そうシリルは思っていた。  その教皇のもとへ行く? 「待って。なんでジェラールが? そもそもアリスの件とどういう……」  先に立って歩いていたジェラールが目の前の扉を開ける。そこはここに出入りしていたときも決して入ることを許されなかった扉だった。扉の先を見て驚く。地下へと伸びる階段がそこにはあった。 「シリル」  地下からはかすかに風が吹きあがってくる。その風にひげをそよがせながらジェラールが口を開いた。意を決するようなそんな口調だった。 「アリスを国王暗殺の犯人に仕立てるように命じられたのは、教皇さまだ」

ともだちにシェアしよう!