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第60話 「それって最高だろ?」
人に戻れる? とは彼は訊かなかった。けれど言外の声が聞こえた。アリスはやはり黙っている。救いを求めるように妹の顔を見つめるシリルの前で、アリスの目が揺れた。
「戻れない。力を使い切った後、あなたは大気に溶けて消える。でもあなたの力で数多の命が確実に助かる」
「そ、か」
「待っ……て、そんな」
諦めに満ちた彼の声に反発し、シリルは首を振る。
彼が異形に墜ちる。それだって苦しかった。でも……異形になり果てたとしても、もしかしたらこれから先、そばにいられるかもしれない。そんな気持ちがシリルにはかすかにあった。この国には異形と添い遂げた人間の逸話が複数残っていたから。
けれど今、妹は言った。大気に溶けて消える、と。
それは完全な彼の死を意味する。なのに、彼は絶対言うのだ。
「シリル。やって、くれる?」
ほら。こんなふうに。
「そんなの、無理……」
混乱するシリルの右手をヤンの左手がくっと掴む。鱗に覆われつつも掌にはまだ熱を宿すその手の感触に、感情を抑えきれなくなった。
「なんで? なんでヤンがそんなことにならなきゃいけない? そんなのおかしいだろ! そんなの……!」
そこまで言ってシリルは片手で口許を覆う。だってこうなったのは、全部自分のせいだ。
自分が人を呪ったから。王を、民を、妹を殺した世界を。
「ごめん……俺、やだ……」
覚悟を決めて始めたつもりだった。全部壊しても望みを叶えるつもりだった。だって許せなかったから。全部間違っていると思ったから。
でも一番間違っていたのは自分だった。
震えるシリルの両腕が彼によって掴まれる。宥めるような動きで腕が揺さぶられた。
「シリル、お願い」
「やだ」
「お願いだって」
「どうして?」
声が跳ね上がる。高く反響するその声が悲鳴じみていることに気づいたけれど、止められなかった。
「なんでヤンがそう言えるの? なんで責めないの? 俺のせいだろ? あんたがこんな姿になったの。それなのにどうして?」
「お前って忘れっぽいね」
柔らかい声に引かれて彼の顔を見る。ヤンは、笑っていた。
「俺、人殺しなんだよ。言っただろ」
「だから? あんたの罪は不可抗力であんたのせいじゃない。むしろ俺のほうが罪深い。俺も殺したもの。闇魔術師に捕まったとき。でもなんの罰も受けてない。受けるなら俺なのに」
「お前は罰を受けてるだろ。愛する男を異形に変えちゃったっていうとびっきりの罰」
「そんな、の……!」
どうしてそんな言い方ができるのだろう。朗らかないつもの声に胸を突かれた。
「俺は異形に墜ちた。でもな、こうなったおかげで、やっと本当の意味で罪を償える気がするんだ」
だってさ、とヤンの指が頬を辿る。温かい指の動きで覚った。いつの間にか両目から涙が落ち続けていた。
「お前が俺を竜に変えてくれたら、俺は人を救える。殺すんじゃなくて、助けられる。闇魔術師の俺が。それって最高だろ?」
「最高なんかじゃない!」
我慢できず彼の胸にすがりつくと、大きな手が後ろ頭を撫でた。その足元がぐらっと揺れる。眩暈かと思った。でも違う。
「二回目」
低い声が告げる。長い髪を風にそよがせ、アリスが一歩歩を詰めてきた。
「もう時間がない。お兄ちゃん。早くしないと全部無駄になる」
その言葉に……心の奥で張りつめていた糸が完全に切れた。
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