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第61話 あなたが、いてくれたら。
「無駄?」
握り締めていたヤンの外套から手を離し、シリルはアリスに向き直る。
「お前は全部本当にわかってた? わかってて殺された? 俺が禁忌を犯すことも全部?」
「うん。お兄ちゃんならそうするって知ってた。私のためならなにもかも捨ててくれると思ってた」
「だとしても……こんなの間違ってる。自分の命まで放り出して。こんな」
「放り出す、か。そうだね、そりゃそう見えるよね。でもね、私だって悩んだんだよ」
不意にアリスの声が軋む。目を見張った先で自分と同じ紅に染まった目が震えた。
「殺されたいわけなんてないじゃない。けどわかっちゃうの。こうしないと全部なくなるって。お兄ちゃんも死んじゃうって! そんなの嫌だったの! そうならないためなら誰がどうなっても構わない! お兄ちゃんが愛してるその人のことも! 自分のことだって!」
とん、とアリスの足が床を踏み鳴らす。実体はない。だから音なんてしない。でも聞こえた気がした。目を見張るシリルの前で、アリスの目からぽろぽろと雫が流れ落ちる。零れたそばから消えていく朝露のような儚さで、涙が空気へと溶けていく。
――私、お兄ちゃんと一緒ならなんにも怖いことないの。
思い出したのは、アリスが口癖のように言っていたこんな言葉だった。
幼いころに両親が流行り病で死に、最初はスラムで地を這うような生活をしていた。食事を摂れない日だって珍しくなくて、兄妹ふたりしてがりがりに痩せていた。でもそんな生活の中でもアリスが文句を言うことはなかった。いつもシリルに張りついて笑ってくれていた。
アリスが七つになったころだろうか。彼女がこんなことを言った。
――お兄ちゃんのお嫁さんになりたかったなあ。
なりたい、じゃなくて、なりたかった、と彼女は言った。
その違いを当時のシリルは深く考えなかった。アリスが抱いていたのは、幼いころにありがちな身近な異性に対する憧れみたいな思慕であり、兄妹での婚姻が叶わないこともちゃんと知っていて、それが悔しくて出た台詞なのだろうと気にも留めていなかった。
だがもしかしたら違ったのかもしれない。なりたかった、と語った理由。それは制度上できないからとか、そういう意味ではなく……自分が死ぬのがわかっていたから。
細い肩がわななく。けれどそれは僅かな間で、つっと上がった手によって涙は払われた。
「私のことはいい。でも多くの命が失われる。だからお兄ちゃんにはやってもらわなきゃいけない」
「そんなの……」
「シリル」
すっと背中が抱かれる。その腕の中で激しく首を振る。術を使えば今、自分を抱きしめてくれるこの人はいなくなる。なのに、この人は言うのだ。使って、と。
一方で、もし使わねば、アリスの想いも踏みにじることになる。
どうしたらいいのだろう。もう、本当に、わからない。
「ごめん。勝手だよな。俺もお前の妹も」
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