62 / 75
第62話 「好きにしていい」
背中を包む力が強くなる。異形の香りが濃くなる。でも離れたいなんて微塵も思わなかった。腰に回された腕をしがみつくみたいな力できゅっと握ると、柔らかい声が耳を撫でた。
「いいよ。お前が決めな。好きにしていい」
腰を抱く腕の力が、シリルの力に応えるように増す。
「俺はどっちでも従う。世界が終わるまでお前とこのままでいたっていい。竜になってこの世界のために体を使ったっていい」
「どうして? だって、あんた、人を救いたいって」
「それはそうだよ。でも」
背中でくすっと彼が笑う。いつも通りの軽やかな響きがそこにはあった。
「俺が一番救いたいって思うのはお前の心だって思っちゃったんだよ。だから、シリル」
そうっと腕の中で体が回される。
「しなきゃ、とか、すべき、とかもう気にするな。自分がしたいようにしろ」
思い出したのは……あのときだ。
お前、俺に抱かれても平気? と不安そうに訊いてきたとき。あのときもこの人はこちらに選択させてくれた。一緒に禁忌を犯すのに。それなのに。
この人はいつもそうだ。きっとそれがこの人の愛の示し方なのだろう。
でもシリルは知っている。
この人が本当に望んでいることを。委ねながらも思っていることを。
この人はすべてを救いたいのだ。命を奪ってしまった過去もあるだろう。でもそれだけじゃない。この人はもとからそういう人だ。誰かを助け、救いたいと願う人。たとえ自分の身がどうなろうとも。それがわかる。
だってシリルもこの人にずっと救われてきたのだから。死んでいた心をこの人は生き返らせてくれた。何気ない軽口で、呆れたみたいな笑顔で、優しい体温で。なんの見返りも求めずに。
――俺ね、お前に助けられたんだよ。三年前。癒しの天使って呼ばれてたお前にね。
たったそれだけの理由で。
それに比べて……自分はどうだろう。
いつだって見返りを求めて。返してくれないからと復讐に突き進んだ。でも今、その復讐さえ見失い、立ち止まっている。
――だからって見殺しにできるか! くそが!
自己嫌悪にうなだれる自分の中で、なにかが小さく呼吸をするのを感じ、シリルは顔を上げる。
癒しの天使と呼ばれていた過去の自分にだって、人を救いたいという気持ちがなかったわけじゃない。でもシリルが力を使ってきた根幹にあった想いは、これまでの恩を魔術で返さねば、だった。そこには限りなく義務感があった。だから自発的にはまず動いてこなかった。
でもマリーと呼ばれたあの少女が川に落ちたとき。ヤンが怒鳴ったあのとき。
少女を助けたシリルの心に義務感はなかった。救いたい、という願いしかなかった。
ありがとう、と笑って手を振った少女の掌。雪の中でひらひらと蝶のように舞うそれを再び死地へと追いやることなんて、できない。
したくない。
そんな未来を、自分を救ってくれたこの人に見せたくなんて、ない。絶対に。
「もう……」
ともだちにシェアしよう!

