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第69話 「一緒に逝こうよ」
フィラードでもっとも高い建物は宮廷だ。その宮廷をゆうに超える高さの波が海岸線を吞み込もうと迫ってくる。それでもまだ逃げ遅れた人がいる。
「荷物は捨てて! 高台へ!」
「捨てられるか! これがなかったら明日からどうやって生きていけばいいんだ!」
「捨てなきゃ明日なんて来ないんだよ!」
荷車を引く男性が汗に塗れた顔で怒鳴り返す。だが波はもうすぐそこだ。男をさらに怒鳴り飛ばそうとして異変に気づいた。辺りがやけに暗い。急に日が陰ったみたいだ。振り仰いで、シリルは硬直した。
自分達を見下ろすようにして、海から立ち上がった波が壁となってすぐ傍らに佇んでいた。
とっさに波を術で押し返す。荷車の男性は腰が抜けたようにその場に座り込んでしまっている。
「立って! 早く!」
「無理だ、無理だよ……」
「弱音吐いてんじゃねえよ! おっさん!」
水の集合体が奏でるざらついた波音にかき消されまいと、我知らず荒い口調が出てしまう。ああ、こんなのはヤンが言いそうな台詞だ。そう思ったらみぞおちがふわっと熱くなった。
誰も死なせるわけにはいかない。もしも死なせてしまったら、彼に顔向けできなくなる。絶対、助けねば。
そう思うのに、波は容赦なく押し寄せてくる。さながら巨大な鯨の口腔のように覆いかぶさってくる水の塊から、滝めいた水しぶきが溢れ出し、全身を濡らす。ずぶ濡れになりながらそれでも踏みしめようとした足元が、ずるりと滑った。
狙いすましたように大水が襲い掛かってくる。体勢を立て直そうとするが間に合わない。逃げて、と男に叫んだそのとき。
低い声が、波を裂いて轟いた。
と同時に、今まさになだれ落ちてこようとしていた波が、時の存在を忘れたようにすっと息を殺した。耳を塞いでいた波音が消え去り、静寂が訪れる。聞こえるのは背後で腰を抜かしている男性の悲鳴と、自分の呼吸音だけだ。
どうして、と見上げた先で、きらり、と銀色が閃いた。静止した波の上を竜が行く。陽光に鋼色を煌めかせ、立ち上がった波頭を腹で撫で、まっすぐに竜が駆けていく。
「ヤン……」
遥か上空にいる彼に声など届きはしない。それが口惜しい。でも窮地に陥った自分を救わんとしてくれたその行動の中に、人であったころの彼が見えて涙が出た。
彼の思いを無駄になんてできない。
「逃げて……早く! 今のうちに! 行けってば!」
シリルの声に我に返ったように男が腰を上げる。荷車を捨て走り始めた男は、そこで振り返った。
「あ、あんた。あんたは……?」
時を止めていた波がじわり、と動き始める。だがもう崩れ落ちては来ない。じりじりと陸とは反対、海の彼方へと後ずさりを始めた波を見送りながら、シリルは首を振る。
「ここにいる。逃げ遅れた人がいるかもしれないし。それに」
視線を投げた先に彼の姿が見えた。海岸線をなぞるように駆けていく彼に向かい、知らず足が動く。
「恋人のそばに、行きたいから」
「恋人?」
「……早く逃げてね」
怪訝そうな問いには答えず、今やすっかりと波が引いた浜辺を走り出す。砂に足を取られながら歩を進め、上空へ向けて声を放つ。
「ヤン……!」
彼は前を向き、どこまでも空を滑っていく。けれど、少しずつ高度が落ちていることに気づいた。まっすぐだった飛び方が蛇行を始め、体が傾いていく。
そばに行ったからといってなにができるわけでもないかもしれない。それでもこのまま落ちていく彼を見ていることなんてできなくて、シリルは地面を蹴って浮き上がった。波を止めるために無理をしたからもう力なんてどれほども残っていなかったけれど、それでも必死に風に身を任せ飛ぶ。空気を裂いて彼のもとへと飛び続け、やっとのことでその鬣を掴んだ瞬間、ぷつり、と糸が切れるように彼の体が浮力をなくした。
「ヤン……!」
声を限りに呼ぶ。もう海面は目の前だった。
……このままふたりで海に沈んでしまうのもいいかもしれない。
青い海を眼下に見ながら過ぎったのはそんな思いだった。
この人はもうすぐ消える。大地を鎮め、海を宥め、力を使いきった先、待つのは消滅だと教皇だったアリスがそう言ったのだから。
でもひとりで逝かせるなんてやっぱり嫌だ。
何人を救ったって、笑顔を守ったって、そこにあなたがいないのは、嫌だ。
「一緒に逝こうよ。ヤン」
声は彼に届いただろうか。まっさかさまに落ちていきながら彼の鬣にしがみついたとき、温かい腕にふわっと包まれたような気が、した。
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