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第70話 「ねえ、覚えてる?」

 束の間気を失っていたらしい。耳を掠める波音と、必死に掴んだ鬣が今も自分の手の中にあるのにほっとしながら、シリルは身を起こす。  その自分の体を守るようにざらついた銀色の巨体がそばにある。掌を冷やす鱗の感触に一気に意識は覚醒した。 「ヤン、ヤン……?」  巨体を撫でながら走り、彼の顔の前へ行く。彼は体を海に半ば没しながら頭を浜辺に投げ出し、瞳を閉じていた。彼のその尖った鼻先を必死に撫でる。洞を思わせる大きな鼻の孔からは、その大きさとは不似合いないつ止まるともわからぬ、か細い吐息が漏れ出すばかりだ。  ざざん、と正気を取り戻した波が足元で小さく鳴いた。  あのとき。海に落ちたとき。浜辺は遠かったはずだ。でも今、自分達は浜にいる。 「助けてくれたの? 俺がいたから? だからここまで運んでくれたの?」  返る声はない。瞳も開かない。ねえ、と抱きしめようと腕を広げる。 「え、なに、これ……」  が、その腕がいきなりざらりと滑った。見ると、彼の体が徐々に崩れようとしていた。まるで彫像が風化していくように、金色の砂となって形を失い始めていた。 「うそ……やだ、やだ……」  崩壊を食い止めようと夢中で彼の鼻先を両腕で包む。それでも止まらない。陽光の色に似た砂は浜辺へは積もらず、崩れたそばから空気へ溶けていく。  海に浸かっていた体も、白銀の鬣も、陽光と同化するようにじりじりと色を失い、金色へと没していく。 「なんで……! やだ……なんで……!」  叫ぶその声にわずかに彼の瞼が開く。大きな瞳はもう、シリルの知っている漆黒のそれではなかった。太陽がそのまま落ちてきたみたいな金褐色の双眸が、自分の泣き顔をどんよりと映すのを見て、気が狂いそうになった。 「ヤン……」  彼はなにも言わない。言葉が伝わっているのかどうかも定かではない。その彼になにを伝えていいのかも、わからない。  ごめん、だろうか。ありがとう、だろうか。わからない。わからない。  泣き出したシリルを彼が見つめる。色も大きさもなにもかも違ってしまったのにその目に徐々に浮かび始める光を見て、ああ、この人はやっぱりヤン・デ・カヌだと思った。  思い出すのはあの小屋でふたり過ごした日々だ。自分は復讐に目を塞がれていて、魔術書にかじりついていて。そんな自分に彼はいつも食事を作ってくれた。軽口と一緒に温かい掌で触れてくれた。  楽しいなんて思ったことはなかった。でも今、どうしようもなくあの時間が懐かしい。 「ねえ、ヤン、覚えてる?」

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