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第72話 「落とし物」

 どれくらい、そのままでいただろう。  波音しか響かないその場所でシリルはゆらりと立ち上がった。足元を、ざばり、と波が舐める。崩れやすい砂のせいか、それとも疲労からか、うまく歩けない。  でも、歩きたい、と思った。自分にどれほどのことができるかもわからない。それでもきっと街ではまだ混乱が続いている。だとしたらこのまま蹲っていたくなんてなかった。  彼が好きと言ってくれた自分でいるために、進みたかった。  自分の意志で……歩きたかった。 「わ」  けれど、意志とは裏腹に体はよろめく。休みなしに動き回っていたのだ。仕方ないのかもしれない。  でも歩かなきゃ。  がらんどうの心に必死に火を灯し、足を踏みしめる。けれど浜辺の砂は脆く、足の裏をたやすく飲み込んでしまう。  闇雲に腕を振り回すが体勢は戻せない。そのまま白砂へと倒れようとした自分の肩を、誰かの腕が不意にさらう。  頬に残る涙を、見知らぬ誰かに見られるわけにいかない。慌てて疲れていないほうの手を上げて頬を拭いながら、すみません、と明るい声を作る。  でも、相手はなにも言わない。  ゆるゆると顔を上げて……息が止まった。  ざざん、と波が鳴く。その音にほんの少し耳を傾けるような表情をしたその人の唇がふっと笑みの形に解けた。 「落とし物」  軽い口調とともに指が右耳を辿った。冷えていた耳朶に温もりがじわりと沁みる。  しなやかな長い指の感触が心の奥へと落ちていく。 「うん、やっぱりこれ、すごく似合う」  ……あり得ない。こんなこと、あるわけがない。そのはずなのに、馴染んだ指先はここにあって、落とした耳飾りをそうっと着けてくれる。 「お前の目と同じ、綺麗な赤」  しっとりと耳の奥へ滑り込んでくる声。肌に触れる高めの体温を宿した指先。大切でたまらないと言いたげにこちらを見つめてくれる、目。  海風にさらっと黒髪が揺れた。 「なんで……」  声が震える。ん? と彼が首を傾げる。そのあまりにも普段通りの顔に目の前がぼやけた。 「なんで……前掛け、してるの」 「え、そこ?」  くくっと彼が笑い、肩が揺れる。白い上衣と黒い前掛けが海風にはためいている。それはあの小屋でともに暮らしていたときの服装で、シリルを混乱させた。  これは、夢、なのだろうか。 「俺がこの姿なのは多分、お前が会いたいって思ったときの俺が、この姿だったってことじゃないかな」

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