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第73話 「ここに」
戸惑いを掬い取るように彼が言う。ゆらりと首を傾けることしかできないでいるシリルの額に、つと指が伸ばされる。張りついた髪を解きほぐすように梳くその手つきは覚えがありすぎるもので、これが夢なのか現実なのかますますわからなくなった。ぼんやりと見上げる自分に、彼が微笑みかけてくる。
それは、ちゃんと飯食べろよ、と軽口とともに向けられたものと同じ、温度のある笑みだった。
ヤン・デ・カヌにしかできない笑顔だった。
「いい加減認めて。これは現実。お前があの歌を歌ってくれたから俺はここにいる」
「歌……」
感情が完全に行き場をなくし、単語を繰り返すのがやっとだ。混乱を宥めるみたいな穏やかな動きで髪が撫でられる。その急かさない、ゆったりとした手つきに合わせ、彼が口ずさみ始めたのはあの歌だった。
「満たせずとも、満たせずとも。何度でも戻しましょう」
――満たせずとも、満たせずとも。
初めて聴かせてくれたあの日のように、彼の唇から淡い物悲しさを帯びた旋律が飛び出す。でもその声に重なって鼓膜の中で響いたのは、ついさっき消えゆこうとする彼にすがりながら歌った自分の声だった。
思い出したとたん、たまらなくなった。
「歌っちゃ、だめ」
「……どうして?」
強い力で彼の服を掴むと、優しい声で彼が問い返してくる。その声は確かに鼓膜を震わせてくるのに、シリルは首を振ることをやめられなかった。
「歌ったら消えちゃう! そんなの、やだ!」
目の前の彼が現実のものなのか、それとも亡霊なのか。今だって判然としないけれど、そんなことはどうでもいい。離したくない。消したくない。もう、失いたくない。
だって自分の掌は、歌声とともに崩れ落ちていった彼の体の感触をはっきり覚えているから。滑り落ちていった砂が、絶望と同じ手触りをしていたことも。
「やだ……」
「シリル」
「やだ!」
絶対今度は手から逃さないように必死に胸の辺りの生地に指を絡めると、彼が小さく笑った。
「消えないってば」
彼の手が再び髪を撫で始める。それでも怖くて手を放せずにいるシリルの手の甲を、ヤンの掌が包んだ。
「俺はちゃんとここにいる。ほら、触って」
手の甲を包んでいた手によって、掌が掬い取られる。指を絡められ、その熱がじりじりと心の縁をくすぐった。そろそろと目を上げたシリルの手を握り締めたまま彼が目を和ませる。
その手の甲にも、頬にも、もう銀色はない。つるりと滑らかな皮膚を見て、やはり夢なのかもしれないと思う。
でもその自分の手を包む手から伝わってくるのは、確かすぎる体温だった。
「本当、に? ヤン、でも、なんで」
ますます混乱するシリルの頬を、ヤンが片手でそうっと包む。
「あの歌って、古術の中でもとびきり古い術なんだよ。知っている人間はほぼいない。俺もスープを片づけられる便利な術程度にしか思ってなかったんだけど、あれ、対象物の時に干渉する術だったみたいだ。実際に自分がかけられるまでわからなかった」
「それ……じゃあ」
だとしたらもっと早く使っていれば、彼をあれほど苦しめずに済んだのだろうか。異形化を止めることもでき、痛みを和らげることもできたのではないだろうか。唇を震わせると、その思考を読んだように、ヤンが静かに首を振った。
「いや、多分、お前だけじゃ無理」
言いざま、彼はすっと手を上げ左目にかかっていた髪を搔き上げる。そこにあるものを見てシリルは息を呑んだ。
赤い、石があった。白目も黒目もなく、血の赤より鮮烈な緋色の石が、本来眼球がある場所にはめ込まれていた。
「そ、れ」
「お前の妹のだよ」
ヤンの指が伸び、シリルの左耳を探る。そうされて気づいた。左耳に着けていたはずのアリスの耳飾りがなくなっていた。
「教皇の力を宿した石。それとお前が使ってくれた術。そのふたつが戻してくれた。お前が会いたいと思ってくれた俺の姿に」
――お兄ちゃん。幸せでいてね。
彼の左の眼窩にはまった赤い石が太陽の最後の光を反射してきらりと光る。それを見ていたら視界が歪んでどうしようもなくなった。たまらず俯くと腕を引かれる。そのまま大きな胸の中へと引き込まれる。
「ヤン、なの?」
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