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第74話 「キスしたいから、顔、上げて」

 掠れ声が彼の胸に吸い込まれていく。そうだよ、と柔らかい声が答える。その声が完全に心の鍵を壊した。  彼の体温が、香りが、ここにある。あってくれる。  亡霊じゃなく、実体を持って包んでくれて、いる。  体に沁みこんでくる体温を感じたらもう、だめだった。溢れ出す感情の名前もわからないまま、涙とともに全部放って彼の首にかじりついていた。 「ヤン……! ヤンだあっ……ヤン……」  もっと言えることだって言わなきゃいけないことだってあるはずなのに、子どもみたいな声しか出ない。でも構わない。もう、知らない。知るものか。 「どうした? お前いつにも増して可愛い」  くすっと彼が笑う。いつもなら頬を膨らませるけれど、そんな虚勢も張れない。ぐしゃぐしゃに泣き崩れながら、シリルはヤンの肩に顔を押しつける。 「ヤン、ごめん! ごめ、ん!」 「なんで謝るの」  笑み交じりの、けれどいつもより掠れた声が耳の傍でする。きつく抱いてくれるその腕の力に涙がさらに止まらなくなった。 「痛い思い、させ、たし……! 片目、なくな、っちゃったし……!」 「お前さあ、馬鹿なの?」  彼の手によって容赦なく上げさせられた顔の前にあったのは、残った右目を潤ませながら笑う彼の顔だった。 「いやだいやだ泣いたお前に、術かけてとか自分の都合ばっかり押しつけたのは俺。目だって片目ないからなに。これのおかげで俺は消えずにいる」  言いながら彼が指を伸ばす。涙で汚れたシリルの顔を拭いながら、あーあ、と零す。 「せっかくの別嬪がひどい顔だねえ、お前」 「べ、っぴん、じゃない」 「別嬪だよ。別嬪で可愛い、俺の恋人」  さらっと耳元で言われて息を呑んだ次の瞬間、きゅっと再び強く抱かれて心臓まで止まりそうになった。 「古術で人を殺した俺をお前が古術で救ってくれた。俺ね、心底思ってる。この血で生まれてきてよかったって。お前と会えて、すごく幸せだって」  シリル、と彼が呼ぶ。呼んでくれる。ああ、やっぱりこれは夢なのかもしれない。でも注がれるヤンの声には夢で終われない、切迫した痛みがあった。 「俺の中の刻印はお前の妹の石で封じられてる。だからもう魔術は使えない。闇魔術、お前に使わせてもあげられない。俺はもう、お前の役に立たないよ。それでも、いい?」 「馬鹿」  この人はなんでこんなふうなのだろう。自分のことじゃなくていつも人のことばかりで。その優しさが胸に沁みて、苦しい。 「なんにも、してくれなくて、いい、から。お願い」  だから伝えたい。優しさもなにもいらないと。ほしいのはただひとつだけ。 「もう、どこにも行かないで。そばに、いて」  ぎゅっと腕に力を込めると、そうっと背中がさすられた。波の音と同じリズムで撫でられて余計に涙が止まらなくなる。彼の肩に瞼を押し当てると、ヤンが乞う声が耳朶を揺らした。 「シリル、顔、上げて」 「やだ」 「キスしたいから、上げて」  重ねて乞われて、ずくり、と胸が甘く軋む。そろそろと上げた顔の前には、ほしくてほしくてたまらなかった笑顔があった。その笑顔が近づく。  柔らかく重ねられた唇は温かく、抱きしめてくれる体からはいつもの木の香りがした。

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