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第5話 覚醒

 長い眠りからの覚醒の瞬間に知覚したのは、まず、激しい頭の痛みだった。 「……っ」  声を出さぬまま呻いて、次に認識したのは、白い天井だった。  次に、いい匂いのするシーツと、やわらかくてあたたかい上掛けの感触。 「は……?」  驚きのあまり、思わず声が出た。  夢でも見ているのだろうか。それとも、これが死後の世界というやつなのだろうか。  頭がぐらぐらする。昨日まで自分が生きてきた世界と、夢で見た光景がないまぜになって、過去と現在、空想と現実の境界を捉えきれない。 「おはよう。気分はどう? ……と言いたいところだけど、あんまりよくはなさそうだね」  半分だけ閉められていた遮光カーテンが開け放たれて、明るい日差しが差し込んでくる。  光に透ける淡い金髪をした青年がこちらを心配そうに覗き込んできた。  幻覚にしてはやけにリアルだ。  おそるおそる手を伸ばすと、指を絡められて、ぎゅっと握られる。  手はほんのりあたたかくて、確かにそこにいるのだと伝わってくる。 「にいさん……?」  渇いた喉は、醜くしゃがれた声しか発することができなかったが、青年は嬉しそうに顔をほころばせる。 「よかった、ちゃんと思い出したみたいだね」 「……本当に、兄さん……オーウェン・ロゴフなのか……?」  問いかけながら、頭が割れるような頭痛が襲ってきて、エスは今度こそ声をあげて呻いた。 「大丈夫、あせらなくていいから、落ち着いて。きみが寝ている間に首のチップを摘出させてもらったから、その後遺症がまだ少し残ってるんだ。それから、薬物による洗脳を中和するための薬も投与させてもらった」  優しい手が、頭を撫でてきた。 「チップを停止させた時点で記憶は戻り始めているはずだけど、いきなり、今までずっと忘れるように暗示されていた記憶が戻ってきたら混乱するよね? 少しずつ馴染ませていけばいいから、今はあまり興奮しないで」  ハウンドファングは、例外なく首にマイクロチップを仕込まれている。  エスは首の後ろに手をやったが、包帯が巻かれていて、いまどういう状態なのかはわからなかった。 「答えてくれ……あんたは本当にオレの兄さんなのか……? いや、血が繋がっていないなら、もう『兄さん』とは呼んじゃいけないのか……?」  頭に触れる手をきつく握りしめて、エスは再度、同じ問いかけをした。  エスにとっては、なによりも重要なことだったからだ。  青年は、美しいブルーグレーの瞳を細めて嘆息した。 「僕が、オーウェン・ロゴフだよ。グラノールの街で、きみと兄弟としてすごしたオーウェン・ロゴフ、本人だ。きみとは確かに血が繋がっていないけど、今でもきみに、そう呼びたいという気持ちがあるのなら、兄さんと呼んでくれてもかまわない」  手の甲に爪が食い込むくらい強く力をこめてしまったはずだが、オーウェンは痛そうなそぶりすら見せず、エスの好きにさせている。 「生きてたんだな……?」 「いつか必ずきみを迎えに行くと、約束していたからね」  ずいぶん昔のことのはずなのに、つい昨日のことのように、あの時の記憶が蘇ってくる。  あれは、見間違いでもなければ、自分の妄想でもなかったのだ。  エスはたまらずに体を起こした。  頭のみならず、体にも激痛が走るが、かまわなかった。  強引に引き寄せるかたちで、兄の体を抱きしめる。  幼い頃はずいぶんと頼もしく感じられた兄の体は、いまは腕の中にすっぽりとおさまるぐらい華奢に見えた。  それでもやっぱり、匂いと肌の感触や骨格は記憶に残るオーウェンそのものだった。 「よかった……生きててくれて……」  すがりつくようにして囁いた。  再会できたことそのものよりも、彼がいまもこの世界に存在してくれていたという事実に、泣き出したいぐらいの熱い思いがこみ上げてくる。 「……ごめんね。迎えに行くのに、十二年もかかってしまった。怒ってない?」 「いま、兄さんが目の前にいてくれるなら、それだけでじゅうぶんだ」 「そっか……」  そっと、背中が撫でられる。  そのまましばらくの間、無言の抱擁が続いた。  纏わりつくような眠気が引いて、いくらか頭の中が明瞭になってくると、夢の中で見た光景が、すべて、自分の過去であるとしっかり認識することができるようになってきた。 「……悔しいな」 「なにが?」 「兄さんのことだけは絶対忘れない自信があったのに、どうして忘れていたんだろう」  ある日突然すべてを忘れてしまったわけではない。 だんだんと、パズルのピースがひとつひとつ欠け落ちていくようにいろんなことを忘れていったのは、今となっては恐怖でしかない。 「僕がきみに教えた教養と技術のすべては、きみが優秀なハウンドファングになるために必要な要素だったからね。少しずつ、他者との思い出だけを曖昧にさせていくしかなかったのさ。そのための薬が毎日、食事にまぜられていたはずだ。そして、きみが完全に以前の自我を取り戻すことがないよう、首のマイクロチップで制御していた。きみはなにも悪くないよ」  囚人施設のような場所で与えられていた食事を思い出す。  なにで作られているのかもわからないペースト状の食べ物と、硬くてまずいレーションと、臭い豆のスープ。そんなものばかり食べさせられていた。  あれに薬が混ぜられていたのか。思い出すだけで吐き気がしてきた。 「……兄さんは、オレのこと、ずっと覚えていたのか?」 「僕はあの潜入任務が終わってすぐに、元いた場所に戻されたからね。記憶操作は受けていないよ」 「元いた場所……?」 「それについては、あとでゆっくり話そう。……体の方も治療済みだけど、まだどこか痛いはずだよね? 痛み止めは必要かな?」  思い出したように、エスは自分の体の状態を確認する。  上下一体型のガウンのような青い検査着らしきものを着せられていて、首と腕と脚、腹の一部にそれぞれ包帯が巻かれていた。  体を動かせるということは骨までは損傷していなかったのだろうが、それにしても、かすり傷と呼ぶにはいささか傷が深いようにも感じる。  あの化け物はなんだったんだろう、という疑問が浮かんだが、それもまた、あとで聞くことにしよう。  今の兄さんなら、ちゃんと教えてくれるはずだ。 「体の痛みには慣れているから問題ない。それよりも、頭痛の方がひどい」 「どんな感じの痛み?」 「頭が割れるような痛みだ」  ベッドから降りたオーウェンは壁の方にある机の上の薬ケースを開く。 「だったら、こっちの方がいいかな」  何種類も入っているらしい薬の中から、錠剤がひとつ取り出された。 「自分で飲める?」  エスは錠剤を口に含んだあと、続いて差し出されたコップを受け取ろうとしたが、予想以上に指先の感覚が麻痺していたらしく、手が滑って落としてしまった。 「……っと」  ガラスのコップは、エスの膝を濡らす前に、オーウェンの手によってキャッチされる。 尋常ではない反応速度であった。 「大丈夫?」  すまない、と言おうとしたが、舌の上に錠剤が乗っているせいでうまく喋れない。 「飲ませてあげるよ」  ベッドの端に、オーウェンが膝をつく。クリーム色のスラックスを履いた、すらりとした脚だ。  先ほど、こぼれるのを免れた水が、薄い唇に運ばれる。  頭痛のせいも相まって、エスはそれをぼんやり眺めていることしかできなかった。  気づいた時には口を塞がれていて、オーウェンの口の中で若干ぬるくなった水が、咥内を満たしていた。  前にもこんなことがあったな、とぼんやりした頭のまま考える。あれは……小さい頃じゃない。そうだ、空からいきなり兄が降りてきた直後だ。  あの時は、オーウェンになんの意図があるのかわからなかったが、先ほどまでの話と、状況から判断すると、あの口づけの際に、首の後ろのマイクロチップを停止させてくれたのだろう。  おそらくだが、オーウェンがつけていた指輪に何か仕込まれていたのだ。 「ちゃんと飲めた?」  いつの間にか口は離されていて、咥内の水は、薬とともにすでに喉の奥に流し込まれたあとだった。  エスは軽く咳き込んでから、「ありがとう」と告げる。 「効き始めるまで三十分ぐらいはかかるかもしれないから、それまでゆっくりしてて。もう一度寝てもいいし、お腹がすいたなら、なにか用意するよ」 「いや……今はいい」  一息ついてから、再び首の後ろに手をやる。 「……首のチップ、もうないんだな」 「ああ、そうだね。きみはもう自由だよ」  もともと、チップが埋め込まれているということについて違和感があったわけではない。ただ、『ない』と聞くと急に首や肩が軽くなったような心地もする。  もう、自分を監視し、管理するものはなにもないということだろうか。 「そういえばあの時も、キスしちゃったね。きみが暴れないようにするためと、舌を噛まないようにするための一番穏便な手段だと思ったんだけど……不快だったのなら謝るよ」 「いや……多分、兄さんの判断は正しい」  オーウェンが空から降ってきたことは、他のハウンドファングや本部の連中にも確認されていたはずだ。  チップが即時停止されていなければ、自爆コードが発動して、エスは生きていなかっただろう。 オーウェンの逃走すらも阻まれたかもしれない。  美しい顔が再び近づいてきて、額がくっつけられる。 「きみはもう自由なんだよ。そんな浮かない顔しないで」  金とグレーの前髪がまざりあう。これは昔から、エスになにか言い聞かせる時にオーウェンがよくする仕草だった。 「……オレは何日ぐらい寝ていた?」 「一週間だよ。安心して。怪我は時間がたてば完治するレベルのものだし、それ以外の健康状態に問題はない」 「オレが寝ている間に、グランシャリオからの追跡は」  グランシャリオは、裏切り者を決して許さない。逃亡者は一人残らず殺される決まりになっている。  今まで、生きて脱走に成功した者は一人もいないと聞いている。 「移動中にはあったけど、問題ないよ。ここは南アルリア大陸の中にある、サザンクロシードが管理する建物のひとつだ。北の連中は、おいそれと手が出せないよ」 「南……?」  グランシャリオは、世界中に拠点を持っているが、もともとの本拠地は北アルリア大陸だったはずだ。 「見てみる? リグーシャ山脈が目の前にあって、景色がいいんだ」  手を引かれて、バルコニーに連れ出される。  どうやら、山の谷間に位置する、別荘地のようだった。  近くには森と湖が広がっている。そして湖の向こうには、巨大な山の連なりがある。 「小さい頃、家にあった写真集で見たよね? エス、『行ってみたい』って言ってなかったっけ? だからここを選んだんだよ。空気もいいし、ゆっくり静養にするにはもってこいの場所だしね」  確かに、目覚める前まで自分が吸っていた空気と、匂いも感触も全然違った。  緑と、土の匂いがする。  排気ガスの匂いも機械のオイルの匂いも血の匂いも硝煙の匂いも薬物の匂いもしない。  妙な気分だった。 「ここは安全だよ。だからなにも心配しないで」 「……わかった。だけど兄さん、せっかく連れてきてもらったのにこんなことを言うのは申し訳ないが……オレと一緒にいると、多分……いや確実に兄さんに危害が及ぶ。オレはもう一度兄さんに会えただけでじゅうぶんだから……まずい状況になったら、ためらうことなくオレを切り捨ててほしい」  もう一度兄さんと一緒に暮らしたい――それは、兄と別れて記憶を奪われるまでの間、ずっと願ってきたことだった。  しかし、『逃げ出せたからもう安心』と楽観視できるほど、エスはもう子供ではない。  兄に迷惑をかけるぐらいなら、潔く殺された方がよかった。 「嫌だよ」  オーウェンはキッパリと言い捨てた。  その上で、優しく頭を撫でられる。 「きみは今もとても優しいね、エス。いい子に育ってくれて、すごく嬉しいよ」  並んで立つと、昔はずいぶんと高い位置にあった兄の頭は、今はエスの頭よりも低い位置にあることに気づいた。  決して、オーウェンの身長が平均よりも低いわけではない。自分の方が育ちすぎたのだ、と気づいて、少し、むず痒い気分になる。 「もし、きみを殺そうとするやつがきたら、一緒に倒せばいい。それだけの話だよ。大丈夫、なんとかなるよ。僕はこれでもけっこう強いんだ。それに、きみも強くなった。そうだろう?」  身長や、立場は昔のままじゃない。でも、声や口調や仕草は昔のままで、感覚だけ十数年前に戻ったような気分になる。  ――だけど。   「……兄さんと別れてから、たくさん人を殺した」  もう、この手はどうしようもないほどに汚れてしまっている。ハウンドファングでなくなったからといって、こびりついた罪を洗い流せるわけではない。 「知ってる。僕もたくさん人を殺した」 「兄さんも……?」 「もっと汚いこともたくさん覚えた。きみに軽蔑されてもおかしくないようなこともね。……こんな手で触れられるのは嫌かな?」  頭を撫でていた手が、そっと離れていく。  それを寂しいと感じながらも、エスは、白い手をぼんやり眺めていることしかできなかった。 「嫌なわけがない。でも……すまない。まだ頭が混乱している。それにオレは、今の状況を正確に把握できていない。ちゃんと答えられる自信がないから、少し待ってくれ」  オーウェンが人を殺すことなど想像できない。  でも、彼が普通の人間なら、あんな上空からパラシュートもなしに降りてくることなどできないだろうし、先ほどのコップをキャッチした動きも、明らかに訓練された人間のそれだった。  離れてから十二年間、彼がなにをしていたのか、自分はなにも知らない。そもそも、彼が何者だったのかすら知らない。 「だけど、あんたが生きててくれただけで嬉しいと思ってるのは、偽りようのない本心だ」  長い金の睫毛に縁取られた目蓋がゆっくりと瞬きをして、夜明け直後の空の色に似た瞳がじっとこちらを見てくる。 「僕も、同じ気持ちだよ。だから、それだけでじゅうぶんだ」

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