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第6話 弟

 この世界には、大きく分けて六つの大陸が存在する。  世界の陸地の三分の一を占める巨大な大陸、トルネシア大陸は、二千年に渡る侵略戦争の末に五十年前に統一され、現在はトルネシア連邦を名乗る一国が支配している。  トルネシアに次ぐ陸地を有するアルリア大陸は、細長い地峡によって繋がってはいるが、地形的にも内部事情的にも、北と南に分かれている。  基本的に平和を重んじる穏健派の大小さまざまな国によって形成された連合でまとまっている南側に対し、北側は争いが絶えない。  今はラバンズ連邦が北側を掌握しているが、六年前まで、ラバンズの首都周辺の広大な領地は、ルビリオ帝国と名乗る大国だった。政変が起こって、地図が書き換わってしまったのである。  グランシャリオはもともと、ルビリオ帝国が作った情報機関だ。その中の部門のひとつが、ハウンドファングと呼ばれるスパイを養成していた。  ルビリオで反乱が起こった際に消滅したと言われていたが、ボスのバルトロノアが極秘裏に生存しており、グランシャリオも活動を続けていた、ということは、一部の情報筋には把握されていた。  現在はマフィアのような活動をして資金を集めている。  その目的は、ルビリオ帝国復活だと言われているが、実際のところはどうなのか、バルトロノアにしかわからない。  オーウェンが所属するサザンクロシードは、南アルリア連合――通称SAUの平和維持機関だ。その名の通り、南側の平和のために情報収集やあらゆる工作を行う、連合直轄の組織である。  北と南は、敵対しているわけではないが決して仲良しでもない。場合によっては協力し合うが、場合によっては睨み合うという、緊張感のある関係がこの数百年以上続いている。  二十年ほど前に、歴史上はじめて正式な南北同盟が結ばれたが、ルビリオ帝国崩壊とともに、同盟は自然消滅に近いかたちで破綻した。  その貴重な同盟期間のさなか、トルネシアが妙な研究をしているという噂が流れ、北と南が共同で調査にあたることになった。  その際、南側が用意した人材がオーウェンと、そして母親役のカランだということだった。  エスはそこまで詳しいことは聞かされていなかった。  父親役のコンラートはもちろん知っていたのだろうが、コンラートとも、十二年間、一切会っていない。  自分たちは偽りの家族だっただけではなく、そもそも所属する組織も、祖国すら異なる他人だったのである。  幼い頃にエスがその事実を知っていたら、ショックで塞ぎ込んでしまったかもしれない。  しかし、二十一歳となった今、景色のいい湖畔を散歩しながらそんな話を聞かされても、不思議と気分は落ち着いていた。  絶望なら、帰る家をなくした時と、兄と本当の兄弟ではないと告げられた時にじゅうぶん味わった。  それ以降、エスは自分の中の感情が麻痺しているのを感じていた。  もしかしたらそれも、食事に混ぜられていたという薬のせいなのかもしれないが。 「あの潜入任務が終わったあと、北の方では内政がゴタゴタして、南の介入を拒むようになったから、僕が南に戻されたあとは、共同作戦のようなことはまったくなくなったと思う。トルネシアから盗んだデータは、それぞれの陣営で活用することとなった」  ゆったりとした足取りで湖の縁の緑の上を歩きながら、オーウェンは語る。  エスが目覚めてから七日がたった。  今日は天気がいいから外を散歩してみようか、とオーウェンが言い出したのは、朝食のあとのことだ。  歩くたびに淡い色をした金髪がわずかに風に揺れて、綺麗だな、と思った。  今日のオーウェンは、クリーム色をした大きめのニットに細身のデニムパンツという、ラフな格好をしている。  だいぶ傷が癒えて食欲も戻ってきたエスは、今日になってようやく患者着でもパジャマでもない着替えを渡されたのだが、それはオーウェンと色違いの似たような格好で、正直落ち着かない。  変装用の衣装は別として、作業用と戦闘用の服以外を着るのは、多分、とても久しぶりだ。 「あの脱走者が打った薬物……あれは、兄さんが用意したものなのか?」 「いいや、エスをこちら側に連れてくるための作戦に協力してもらったグランシャリオ側の人物はアンナ・バルテルという女で、あれは彼女が作ったものじゃないかな。詳しくは僕も知らない。聞いても教えてもらえなかった、というのが正確なところだけどね」 「アンナ・バルテル……?」 「きみたちは『保健医』と呼んでいたはずだよ」 「あの女か」  そういえば、グランシャリオの幹部たちはアンナと呼んでいたかもしれない。  ハウンドファングの健康状態を定期的にチェックしたり、怪我した者の手当てを行う医者で、年齢は三十前後に見えるが、十年以上前から見た目に変化がないので、実年齢がいくつなのかを想定するのは難しい。  癖のある栗色の髪に丸眼鏡をかけた、謎めいた女だった。 「あいつは……ジャックは、薬物を打つ前から、故郷の記憶を思い出しているようだった」 「それもアンナの仕業だろうね。彼女はハウンドファングの一部の者を実験に使っていたようだから。南側が開発したエリクシアに関するデータを提供すると申し出たら、喜んで協力に応じてくれたよ」 「エリクシア……?」 「もっとも、データを手にしたところで、いまのグランシャリオで同じものが再現できるとは思えないけどね」  小屋のそばまできたところで、オーウェンは石を積み上げてできた段差に腰をかけ、エスを手招きした。 「大丈夫? 疲れてない?」 「いや、そろそろ体を動かさないと体が鈍って調子が悪くなりそうだったから、連れ出してもらって助かった」  三十分以上は歩いただろうか。ここからだと、自分たちが療養所にしている洋館がよく見える。  お伽話の世界なら領主の館とでも呼ばれていそうな、古くて風情のある、オレンジがかったベージュ色の建物だった。  いくつかある棟の一部に鋭角の三角屋根が三つほどついているので、城にも見える。  オーウェンの話によると、このあたりには数百年前に作られたこの手の建物が多く、金さえ出せば、一般人でも誰でも買えるらしい。 「ジャックはあのあと、どうなったんだ」 「我々の方で回収させてもらったよ。……残念ながら、治療中に亡くなったと報告があったけど」 「そうか」  ジャックに関して個人的な思い入れはないので、哀れだとは思いつつ、どこか冷ややかに割り切っている自分がいる。  人の死に慣れすぎたせいだ。そうでないと、これまで生き残ってはこれなかった。  だが、『ただ家に帰りたかっただけなんだ』と切実に訴えていた姿が妙に心に残っている。  ジャック以外にも『本来帰るべき家』があったハウンドファングはたくさんいたのだろうか。  ――自分は?  オーウェンの話によると、彼に出会ったのは四歳の時。それ以前の記憶はない。  そもそも、四歳の頃の記憶も曖昧で、なんとなく思い出らしい思い出が浮かぶのは、一番古い記憶でも五歳ぐらいのあたりからだろうか。  あの頃、自分が家族だと信じていた人たちが偽物の家族だったのなら、本物の家族はどこにいるのだろうか。 「ジャックが化け物になる前、少しだけ話をした。帰りたい場所はないのか、と問われて、あの時のオレは、グランシャリオ以外の、どこに帰る場所があるというんだ、答えた。いま思うと、ぞっとする」  目覚めてから七日の間、傷ついた体を休めながら、戻ってきた記憶をひとつひとつ確かめていた。  少なくとも、幼い子供が記憶できる範囲の記憶は半分以上戻ってきたんじゃないかと思う。  もう、混乱はしていない。  過去と現在はちゃんとエスの頭の中で繋がるようになっていた。 「いろいろと考えたが、やはりオレの『帰りたい場所』は、グラノールの白い家以外にないと思った」 「……あの家はもうないよ」 「知ってる」  燃えてしまったものは、もう元には戻らない。  それに、あれからずいぶんと時間がたった。もう、家のまわりの景色もだいぶ変わってしまっているかもしれない。  それにグラノールは、トルネシア国内にある。潜入任務でもないのに今からトルネシアに暮らすのは、自分とオーウェンの立場から考えて、無理があるだろう。 「行ってみる?」 「え?」  オーウェンの口から出たのはごくさりげない言葉で、エスは戸惑う。 「さすがに住むのは無理だけど、見に行くだけなら、そう難しいことじゃないよ。実は、エスの偽造パスポートはすぐに用意できるよう、すでに手配してあるんだ。あとは写真を撮るだけだね。旅行客を装って、ぶらっと街を回るだけならなにも問題ない」 「本気で言ってるのか……?」 「ここは交通の便が悪いから空港まで五時間ぐらいかかると思うけど、飛行機に乗れさえすれば、グラノールに一番近い空港までは十三時間ぐらいかな? まぁ、のんびり行っても、二日ぐらいあればじゅうぶんに着くね」  移動時間の問題ではない。  エスにとっては、永久に手の届かない場所、という感覚だったのだ。  そんな、散歩に行くついでみたいなノリで言われても、すぐに喜ぶという感覚にはなれない。 「パスポート用のエスの偽名、『レイニー・アシュリー』っていう名前にしておいたんだけど、どうかな? あ、ちなみに僕の偽名はいくつかあるんだけど、現在、主に使ってるのは『ルイス・アシュリー』という名前だよ。……僕たちはまた『兄弟』に戻れるんだ」  エスが黙り込んだままでいると、オーウェンは困ったように眉尻を下げた。 「ごめん。いっぺんにいろいろ言い過ぎたね。ゆっくり考えてくれていいから」  十二年間、感情も表情も動かさず、余計なことは一切口にしない訓練を受けてきたせいで、自分がずいぶんと寡黙で無愛想な人間になっていることに気づく。  もともとはそんなにお喋りではなかったはずのオーウェンが再会してからはやけに口数が多いのは、エスに気を遣ってのことだろう。 「……いや、いろいろとありがとう。手間をかけさせてすまない。できることなら、兄さんともう一度、グラノールに行ってみたいと思っている」  幼い頃のように豊かに感情表現をすることは難しいが、淡々とした口調ながらも、エスは率直な気持ちを伝えた。  オーウェンは目に見えるほど嬉しそうに顔を綻ばせた。 「明日、医者がきみの様子を見にくるから、診察の結果に問題がなければ、すぐに航空券を手配させよう」 「兄さんはその……大丈夫なのか? 仕事とか」  オーウェンが具体的にいまどういう仕事をしているのかまでは知らないが、サザンクロシードのエージェントであるなら、そんなに暇ではないはずだ。 「ああ、平気だよ。ここ数年分の休暇をまとめてもらってるからね。きみを南側に連れてくる作戦が無事成功したから、僕もようやくゆっくりできる」 「すまない。その……準備もいろいろ大変だったんだろう?」 「謝らないで。きみがいてくれるから、僕はようやく心の安らぎを得られるようになったんだ」  頭を撫でられて、あたたかい眼差しで見つめられる。  その顔があまりにも優しいから、エスは少し、くすぐったいような気分になった。 「じゃあ、そろそろ部屋に戻ろうか」  腰を上げると、ごく当たり前のように手を引かれて歩き出した。  数メートル進んだところで、少し前を歩いていたオーウェンが振り返ってくる。 「ごめん。つい、昔の癖で」 「……いや」  幼い頃、よく、こうして兄に手を引かれて歩いた。  今は、二人ともすっかり大きくなってしまった。  エスは、精神的にはまだ大人とは言いがたいが、身長は百八十五センチほどある。兄はそれよりもいくらか低いが、落ち着いた雰囲気は大人そのもので、客観的に見れば、いい年した兄弟が仲良く手を繋いでいるような異様な光景になっていたことだろう。  しかしここには現在、オーウェンとエス以外の人間はいないので、人目を気にする必要はない。  離されそうになった手を、エスの方から強く握りしめて、隣に並ぶ。 「兄さんを見下ろしているなんて、妙な感じだ」 「ふふ、すっかり追い越されちゃったね」  ずっと、大きくて頼もしいと思っていた兄の背中は、今の自分と比べてみると、ずいぶんと華奢だ。  ようやく肩を並べられるようになったんだ、と思うと、やけに感慨深く感じられる。  生き残っていなければ、間違いなく、こんな日はこなかったはずだ。  生き残るために自分がこれまでしてきたことが正しかったと胸を張って言えるほど傲慢にはなれないが、この日のために生き続けてきたのだ、という気持ちは偽りようがない。 「エス、手も大きくなったね」  確かめるように、手首の付け根から人差し指の先までを指先でなぞられて、それから、指を絡められる。  白く長いオーウェンの指は美しかったが、やはり、サイズの話で言うならエスの方が大きい。 「……オレがほんとに兄さんと血が繋がった弟だったら、兄さんよりも小柄に育っただろうか」  成長できたのは嬉しいが、やはり自分たちはまったく違う遺伝子によって構成されているのだろうことを思い知らされて、一抹の寂しさを覚える。 「あはは、どうだろうね。弟が兄よりも大きく育つなんて、けっこうよくあることだよ」 「そうか?」 「それにね、誰がなんと言おうが、僕はきみを『弟』と呼ぶよ。それでいいじゃないか」  美しい笑顔だった。  繊細な美貌は、やはり自分には似ていない、と思う。けれど、オーウェンがそう言うならそれでいいか、とエスは納得することにした。  たとえ嘘でも、自分たちが兄弟としてすごした時間は、確かに存在したのだ。 「ありがとう、兄さん」 「お礼を言われるようなことじゃないよ」  繋いだ手を、エスはしっかりと握り返した。  触れあったところから、熱が生まれる。  人に触れることを考える時、思い浮かぶのは、あたたかくてやわらかい感触ではなく、もっと熱く、それでいて、次第に冷たくなっていくイメージだ。  自分が殺した人間の血と肉の感触だ。  ハウンドファングであった自分が他者と触れあうというのは、すなわち、他者を殺すことであった。  それ以外、知らないと思っていた。  だけど、それ以外にもあることを、自分はちゃんと、知っていたのだ。

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