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第8話 勝者と敗者
「このあたりとかどうかな? 昔住んでた家の裏の森に、よく似てると思うんだけど」
軽い昼食と健康状態のチェックのあと、動きやすい服装に着替えた二人は、洋館のそばにある森にやってきた。
「ルールを先に決めておこう。まず、武器はなし。体術のみで戦うものとする。体術の種類はなんでもかまわない。複数の格闘技や武術を織り交ぜた技でも大丈夫だ。フィールドには特に制限を設けないが、この時期の水は冷たいから、湖の中だけはやめておこう。ちなみに木の上はOKだ。……それから、時間」
ポケットからストップウォッチを取り出して、エスに見せてくる。
「以前の僕たちは、体力が続く限り……五時間でも六時間でも、日が暮れるまで戦いごっこに明け暮れてたこともあったけど、きみはまだ病み上がりだ。一時間以内にケリをつけよう。もちろん、その前に体がキツくなったら、敗北を宣言してくれてもかまわない」
オーウェンは優しげな笑みを見せるが、常に自分が勝つことを想定している強者の余裕が滲んでいる。
それを、不愉快には思わない。その誇り高さは常に美しく、幼い頃から変わらぬ、エスの憧れであった。
むしろ、血が滾ってくるのを感じた。
幼い頃、兄のように自在に体を動かせないのがもどかしくて、いくらやっても兄に敵わない現実を目の当たりにされるのが悔しくて、執拗に訓練の継続を望んだのはエスの方であった。
地面に膝をついて敗北を突きつけられるたび、『もう一回やらせて』とお願いして、何度も同じことを繰り返した。
『もう一回』という言葉を何十回も繰り返した日も少なくはなかった。
中途半端に手を抜くことはなく、弟のわがままに誠実につき合い続けたオーウェンも楽ではなかっただろう。
今思うと、申し訳ないことをしたと感じる。
でも、こうして森で向かい合って、幼い頃の感覚を取り戻していくたび、どうしようもなく気分が昂ぶっていくのを感じる。
時間の制限を先に言い渡されていなければ、昔のように、日が暮れるまで戦いを挑み続けたかもしれない。
「兄さん、早くやろう」
幼い弟でも見るように、オーウェンはくすりと笑みをこぼした。
「エスのそんな顔がまた見られて嬉しいよ」
長いようで短い戦いの開始の合図は、ピッという軽快な電子音だった。
ストップウォッチは、背の低い木の枝に引っかけられた。訓練中に破損するのを防ぐためだろう。
ゆるい風が吹き抜けて、木々を揺らす。葉がこすれあう穏やかな音とともに、可愛らしい鳥の囀りが聞こえてきた。
午後の日差しが木々の隙間から差し込んで、枯れ葉が散る地面に不規則な光の模様を作っている。
本当に、かつての家の裏にあった森に似ている。
頬を撫でる風も、ささやかな森の息づかいも、すべてが懐かしくて、愛おしいものだった。
もし、あのままあそこで大人になれていたなら――なんて感傷的な考えが浮かびそうになったところで、エスはそれを断ち切るように動き出した。
五メートルほどの距離ごしにゆったりこちらの出方を窺っていたオーウェンに一直線に襲いかかると見せかけて、途中の木の枝を手で掴む。
つま先が宙に浮き、勢いをつけて高い位置まで舞い上がる。
頭上から攻撃を仕掛けてきたエスをよけることは簡単だっただろうが、オーウェンは軽く立ち位置をずらしただけで、エスの手首を掴んできた。 ダンスにでも誘うような動きで、勢いよく振り回される。
その勢いのまま、数メートル先まで吹っ飛ばされた。
「いい動きをするようになったね、エス」
「…………」
あんたの方がよっぽどだよ、と言いたくなった。
オーウェンと別れたあと、エスは、戦うためだけに日々をすごしてきた。
過酷な訓練を日常的に受けてきたし、実際の現場でも、命のやり取りを繰り返してきた。
仲間の誰かが脱落しても、嘆くことも許されず、次の戦いを与えられてきた。
どこかの国の軍の特殊部隊のやつとやり合ったこともある。その国で最強と謳われる兵士たちにも、エスは負けなかった。
森で兄と戦いごっこに夢中になっていた頃より強くなっていないわけがないのだ。
それなのに、どんなに挑んでも、オーウェンは軽くいなすだけで、エスの体勢を大きく崩しながら、自分は悠々と立っている。
――あんたはどこで、誰と戦ってきたんだよ……!
いまだに兄に敵わないことよりも、戦い続けてきた兄の隣に自分がいなかったことが悔しい。
この美しい男がさらに強くなっていくのを、そばで見ていたかった。
「そろそろいいかな?」
体感でいうとだいたい三十分たった頃だろうか。それまで防戦一方だったオーウェンが鮮やかなステップで近づいてきたかと思うと、胸ぐらを掴まれて、投げ飛ばされる。
木の幹に背中を打ちつけたエスの頭の上に、パラパラと木の葉が落ちてきた。
一瞬の静寂。
すぐに体勢を整え直してオーウェンに掴みかかろうとしたエスの顔に、拳が飛んできた。
一撃目はかわしたが、そのまま激しい殴り合いになる。
決着がつかぬうちに腕が絡まってきて、地面に転がされた。
頭を掴まれたので、こちらは顎を掴んでやる。
一瞬の隙すらも許されぬ攻防が、延々と繰り広げられた。
ピピ、ピピピピピ――――ッ。
耳障りな電子音が鳴り響いた時、エスは地面に仰向けに転がり、天を仰いでいた。
エスの体を跨ぐかたちで、悠然と立ったままのオーウェンが見下ろしてくる。
「僕の勝ちだね」
淡い金髪は乱れ、頬には泥がついていたが、その姿は、この世のなによりも美しく見えた。
幼い頃から憧れの兄は、いまもなお憧れのまま、敗者の心を奪ってくる。
立ち上がる気力もなく転がったままでいると、ストップウォッチを止めて戻ってきたオーウェンが、隣に転がってきた。
やや甲高い鳥の声がして見ると、青く鮮やかな羽根を持つ小鳥が木の枝にとまっていて、葉っぱまみれになるのもいとわず地面に寝っ転がる子供のような二人を見下ろしていた。
「懐かしいね」
鳥の羽ばたきを何気なく視線で追いながら、オーウェンがぽつりと呟いた。
「ああ」
戦いごっこのあと、よくこうして、地面に寝転がって、空を見上げていた。
夕焼けがあまりにも美しくて起き上がれずに夜になるまで転がって空を眺めていた日もあった。
すでに星が見えるぐらい暗くなった頃にようやく力尽きて、自分のお腹が鳴る音を聞きながらもなんとなく起き上がれずに星を数えていた日もあった。
今は、まだ明るい空。あの時とは、場所も違う。しかし、あの時に逆戻りしたような錯覚に陥る。
兄と戦うのが好きだった。
それと同じくらい、こうして静かな時をすごすのも好きで、かけがえのない時間だった。
「きみが病み上がりじゃなかったら、僕が負けていたかもね」
「だといいが……兄さんにはまだ敵わないよ」
「そう? エスはすごく強くなったよ。小さい頃とは全然違う」
「兄さんも、強くなった。今はオレの方が体格がいいのに、まったく有利に感じられなかった」
「ふふ、僕はお兄ちゃんだからね。弟にカッコ悪いところは見せられないから、がんばっちゃったよ。……でも、楽しかったなぁ」
空を見上げたまま、兄弟たちは、ぽつりぽつりと言葉を交わす。
「ああ、楽しかった」
戦いは、痛くて苦しくて、辛くて悲しいものだと思っていた。少なくとも兄が隣にいなかった頃は、ずっとそうだった。
死にたくないから戦うだけで、戦いを望んだことは一度もない。
でも、その前には、戦いを楽しんでいる自分もいたのだ。
殺すためではなく、ただ勝つために、純粋に体力と技を磨いていた自分もいたのだ。
そのことを今、ようやく思い出した。
「久しぶりに『生きている』という感じがした」
「じゃあ、その前は? ずっと、死んでるような感じだったの?」
囁くような声が問いかけてくる。
「あんたがそばにいないのなら、死んでるのと同じだ」
事実、この十二年間、心は凍りつくどころか死んでいるような状態だった。
長いこと心を動かしていなかったせいで冗談もろくに言えなくなっていたエスが真面目に返すと、おもむろに体を起こしたオーウェンが、真上から見下ろしてくる。
ブルーグレーの瞳に、笑みは浮かんでいなかった。
かわりに、いつもは空のように穏やかな色合いには熱が滲んで、青い炎のように、わずかに揺らいでいる。
上から覆い被さる格好で、唇を塞がれた。
戦いの名残か、前に触れた時より、ずいぶんと熱っぽく感じられた。
黙って受け入れていると、角度を変えながら何度もついばまれる。
軽く吸われて、ちゅっというささやかな音があがった。
頬に這わせられた指先も熱くて、戸惑いながらも、妙に心地よく感じていた。
今は、舌を噛まないように口を塞がれるような状況でもないし、なにかを口移しされているわけでもない。
この行為にどんな意図があるのか、まったくわからない。
反射的に閉じていた目をうっすら開いてオーウェンの顔色を窺うと、今までに見たことのない兄の顔がそこにあった。
長いこと感情とは無縁の生活を送ってきたエスは、その様子を表現するのに的確な言葉を知らない。
ただ、心地よさそうというべきか、あるいは気持ちよさそうというのが一番近い気はした。
伏せられた目蓋の縁の淡い金色の睫毛が時折揺れて、薄く白い目蓋の皮膚の下の細い血管がうっすら透けて見えるのが、とても綺麗だった。
目蓋が小刻みに震えたかと思うと、ブルーグレーのガラス細工のような瞳がこちらを捉えてきた。
それは、時間にすれば数秒のことだった。しかし、心臓を掴まれたような心地になるにはじゅうぶんすぎるほどの時間だった。
オーウェンが再び目蓋をおろしたのと同時に、唇の隙間を舌先で割り開かれて、舌が侵入してくる。
唇と同様に、前に触れた時よりも熱く感じた。
咥内を隅々までまさぐる舌先は、なにかを確かめているようでもあった。
上顎を舐められるのがくすぐったくてわずかに反応を示すと、今度は唾液をまじりあわせるように舌をすりつけられる。
次第に、オーウェンの呼吸が乱れていく。
訓練中は、タイムリミットが迫った頃になってようやく息があがるようになってきたオーウェンが、たった数分の触れあいで、こんな簡単に吐息をもらすようになるなんて、不思議な感じだった。
ゆるやかだった動きが徐々に加速していき、唾液を飲み込めなくなってきたあたりでようやく、唇が離される。
「……ごめん。さっきの戦いの名残で、気分が昂ぶってて、つい」
濡れた唇と、上気した頬をしたオーウェンは、ばつが悪そうに謝罪してきた。
なぜ謝られたのかわからなかったエスは瞬きをする。
「これもなにかの訓練なのか?」
「……違うよ。僕がただ、きみに触れたかっただけ」
「それなら、嫌ではないから、謝る必要はない」
真顔で返すと、オーウェンも瞬きをして、いくらか冷静さを取り戻した顔になっていた。
「僕とのキス、気持ちよかった?」
「よく、わからない。でも……」
「なに?」
あえて言うようなことでもないので言いよどんでいると、オーウェンが続きを促してくる。
「キスしている最中の兄さんの顔がとても綺麗で、もっと見ていたかった」
くすくす笑ったオーウェンは立ち上がると、頭や服についた葉を払いのけてから、エスに手を差し出してくる。
その手を掴んで、エスも立ち上がった。
「エスはとっても可愛いね」
昔と変わらぬ声音で言われて、エスはなんとも言えない表情になる。
「……だいぶ、可愛げがない弟になった自覚はあるんだが」
オーウェンの髪に葉がまだ残っていたので、つまんで取ってやる。
「どこが? 可愛いよ」
「図体は無駄にでかいし、昔みたいに無邪気に笑えなくなった」
「そのでかい図体で、子供みたいな無邪気な感情を僕に向けてくるところがとっても可愛いよ」
そうなのだろうか。
完璧すぎる兄にひとつ欠点があるとしたら、兄バカすぎるところではないだろうか、と思う。いや、バカというにはあまりにも失礼か。
エスが無言で悩んでいると、手を引かれて、帰ろうと促される。
「すごい汚れちゃったね。久々に、夏でもないのに汗をかいたよ」
「オレもだ」
基本的には、戦闘中であっても汗はかかないように訓練されている。ここまで夢中で体を動かしたのは、やっぱり幼い時以来だと思う。
「久しぶりに、一緒にお風呂でも入ってみる?」
「狭くないか?」
「大丈夫。全然使ってなかったけど、ここ、広いバスルームがあるんだよ。清掃だけは行き届いているはずだから、すぐにお湯を張れるんじゃないかな?」
洋館には、イワノフという名の壮年の管理人がいて、現在、清掃や食事の支度をやってもらっている。
寡黙な管理人はだいぶ綺麗好きな様子なので、確かにあの人なら、普段使っていない場所でもきちんと清掃していそうだ。
「そういえば何年もずっと、シャワーで体を流すだけだったな……」
「僕もだよ」
住んでいる地域による文化の差だろうか。グラノールの家にいた頃は、バスタブに湯を張って浸かる習慣があった。
あの家のバスタブはそんなに広くはなかったが、子供二人で入るにはじゅうぶんなスペースがあって、小さい頃はいつも一緒に入れられていた。
「ごめんね。せっかく傷が癒えてきたところなのに、新しい傷を作っちゃった。綺麗に洗い流して、あとで薬を塗ろう」
首筋を指先でなぞられると、ピリッとわずかな痛みが走った。
おそらく、擦り傷程度だろう。致命傷レベルにならないよう、ちゃんと配慮されているのはわかっていた。
でなければ、五分とたたないうちに殺されていたことだろう。
それほどまでに、オーウェン・ロゴフは強かった。
「兄さんは大丈夫か?」
顎の下あたりに重めの一発を叩き込んでしまった自覚はあって、今さらながら、心配になってくる。
「僕は平気」
そう言われても気になったエスはそっと顎に指をかけて持ち上げる。
薄い痣ができていた。
「悪い。痣になってる」
「気にしないで。すぐに治るから」
「そうか……?」
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