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第9話 エリクシア
百年以上前に建てられた建物の風呂だというから、もっと古めかしい石造りの内装を予想していたのだが、入ってみると、自動給湯器はついているし、壁と床も真新しいタイルが敷き詰められていた。
ただ、一般家庭の風呂に比べればだいぶ広い。
浴槽は円形で、大人五人ぐらい余裕で入れそうだし、洗い場も三人分ほどある。
「ここね、この国の政治家が数年前まで別荘として使ってたんだけど、使わなくなったってことで、サザンクロシードに提供されたんだよね。だから、インテリアはともかく、機能としては意外と最新設備なんだよ」
オーウェンの説明に納得して頷いたエスだが、シャワーに手をかけようとしている白い裸体を見て、強烈な違和感を覚える。
「兄さん、怪我は……?」
帰る途中までは確かにあったはずの擦り傷が消えているように見える。
もしかしてと思って顎の下を見せてもらったら、赤い痣もなくなって、元の白い皮膚に戻っていた。
「ん……言ったでしょ。すぐに治るから、って」
兄はもともと、傷の治りは早い方だったと思う。
小さい頃は、単純に、そういう体質なんだと思っていた。兄以外の人間のことを、エスはよく知らなかったから。
しかし、この回復速度は、常人の範疇を明らかにはみ出していると、今ならわかる。
「どうしてだ? まさか兄さんもなにかの薬物を……?」
先日のビルの一件で、目の前で怪物に変形した元仲間の姿を思い出す。
ヘリから飛び降りてきたのもそうだし、オーウェンの身体能力の高さは、『訓練を積んできた』というだけでは説明のつかない人間離れしたものがある。
オーウェンはあまり話したくなさそうだった。他の傷も確かめようとした手は、やんわりと払いのけられる。
「兄さん……オレの質問に答えてくれ。ササンクロシードはあんたになにをしたんだ。傷がすぐに治ることと、身体能力の向上と……あとはなにがあるんだ」
「勘違いしないで。僕に投与されたのは、アンナが開発している新薬とは完全に別物だ。僕は巨大化したりしない。心配する必要なんて、なにもないよ」
「南側はエリクシアという薬を開発していると言っていたな。兄さんが投与されたのはそれか?」
「……確かに僕はエリクシアの被検体だ。でも、そっちの効果は身体能力の向上だけで、傷が治ることとは関係ない」
「別の薬の効果だというのか?」
「そうだね。……僕がまだ小さい頃、サザンクロシードに保護される前、死にかけていたところを、助けられたことがあるんだよ。その時に命を救ってもらった薬の名前が、アンブロシア。エリクシアのプロトタイプのようなものだよ」
いっぺんにいろんな情報が入ってきて、エスは黙り込んだ。
自分が兄と出会う前と、兄と別れたあと。兄の身になにが起こっていたのか、まったく知らなかったということを突き付けられる。
「エリクシアが作られたのが潜入任務のあとなら、オレと離れたあとにエリクシアの被検体になった、という認識で合っているか?」
「そういうことに、なるね」
「副作用は? なにもないのか?」
「あるにはあるけど、たいしたものじゃないよ」
「本当か?」
「…………」
「どんなささいなものだったとしても、教えてくれ」
両肩を掴んで、真正面から視線をぶつける。
なにもないなら、オーウェンは言いよどんだりしないはずだ。
「……生殖能力の喪失と、寿命が短くなること。それだけだよ」
おそらくは言いたくなかったのだろう。しかしオーウェンは、エスのあまりにも生真面目すぎる心配を適当にかわすような軽薄な男ではなかった。
淡々と、なんでもないことのように、あるいは他人事のように吐き出された言葉に、エスの息が詰まる。
「生殖能力……? 寿命……?」
「子供はもともと作るつもりがなかったし、作ることが許される環境でもないから、なにも問題ない。寿命は……臨床データがまだ足りないからなんとも言えないけど、少なくとも、数年以内に死ぬとかじゃない。今から深刻に考えなきゃいけないようなことでもないよ。ひょっとしたら、五十歳ぐらいまでは普通に生きられるかもしれないしね」
「誰かに殺されたりしなくても、オレより先に死ぬかもしれないということか」
「……そうだね。きっと」
「また、オレを置いていくのか」
口にしてから、ずいぶんと自分勝手な言い分だったと気づいて、エスは口元を掌で覆う。
「すまない。オレのことはどうでもいいんだ。あんたが痛かったり苦しかったり悲しかったりしなければ、それでいいんだ。……でも、なんのためにそんな薬物を?」
自分でも思った以上に動揺していたらしい。視線は揺れて床のあたりをさまよい、声には空虚がまじる。
視界に入ったオーウェンの体は、白く美しく、均整の取れた筋肉はついているものの、あの圧倒的な強さを見せつけてきた者とは思えぬほど、細くすらりとしていた。
この細い肩に、今までいったいなにを背負わされてきたのだろう。
もし、望まずに被検体にされたとあれば、エスは、おとなしくサザンクロシードに従うことは不可能だろう。
「僕が望んだことだよ。きみが悲しむことなんて、なにもない。……でも、心配してくれてありがとう」
手が伸ばされてきて、そっと頭が撫でられる。
その手があまりにも優しくて、泣きたくなった。
なんと言葉を返していいのかわからなかったので、すがりつくように、兄の体を抱きしめた。
「あんたがもし、命をすり減らさなきゃいけないようなことがあったなら、オレの命を先に使ってくれ」
肩に頭を押しつけながら告げる。
「……それは、できないなぁ」
グレーの髪に指を差し込んで撫でながら、苦笑まじりの声が返ってきた。
「どうして」
「エスが先に死んだら、僕はもう戦えないよ」
意味がわからなくて黙り込んでいると、髪を撫でていた背中にするりと降りてきた。
「体、冷えちゃったね。熱を出すといけないから、早く体を洗って、お湯に浸かろう」
「……そうだな。すまなかった」
よく考えたら、裸で話し合わなければいけないような話でもない。
体を離してから改めてオーウェンの顔を見て、エスは首を傾げる。
「……小さい頃、兄さんはよく熱を出していたと思うが、今はそんなことはないのか?」
「ああ、そういえば、ずいぶん長いこと熱は出していないね」
「そうか、それはよかった」
なにもかも完璧な兄が、時折、何の前触れもなくたびたび熱を出すことは心配の種であったのだが、あれがなくなっただけマシというべきだろうか。
いやしかし、エリクシアとやらの効果をそんなに前向きに考えていいものなのだろうか。よくわからない。まだ、わからないことだらけだ。
なにがおかしかったのか、オーウェンはまたくすくすと笑っている。
「エス、かわいいから、体洗ってあげるね」
「いや、それはさすがに……」
「恥ずかしい?」
「……少し」
「ふふ、ちゃんとお年頃みたいで安心したよ」
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