10 / 22
第10話 夢
久しぶりに体を動かした疲労感から、その日は夕食を食べると、すぐに眠ってしまった。
夢の中で、自分はハウンドファングと呼ばれていた頃の戦闘服を着て、アサルトライフルを手に、戦場を駆け抜けていた。
これは過去の記憶だ、となんとなくわかった。
任務に関する記憶は、機密保持のためにすぐに忘れるようにされていたが、兄と再会し、幼い頃の記憶の大半が戻ったあと、少しずつ、断片的に思い出すようになってきていた。
とある紛争地帯で、政治指導者を暗殺するために動いていたのだが、空爆に巻き込まれそうになったのだ。
同じチームの一人は巻き込まれて、四肢が散り散りになっていた。
敵も味方もわからない状況の中で、幼い子供に銃を向けられた。
現地の子供だった。年は多分、七歳ぐらい。自分がハウンドファングとしての教育を受け始めた頃よりも幼い。
その子供は、大人にも負けぬ殺気を放って、祖国の土を土足で踏みにじろうとする者を排除しようとしていた。
手にした銃は、拾ったものか、あるいは死んだ家族のものか。わからないが、引き金にかけた指は震えてはおらず、兵士の服こそ着ていなかったが、立派な兵士の一人としてそこに立っていた。
エスは武器を使わずにすぐに子供を気絶させたが、嫌な心地だけは残った。
翌日、任務を終え、引き上げようとした際に、その子供が道ばたの隅に転がって絶命しているのを偶然見かけた。
この街では死体なんて珍しくもないから、誰も、見向きもしなかった。
ただ、大量のハエだけが、死体に群がっていた。
昨日まで息をしていた人間が今日はいつのまにか動かなくなっていることなんて、別にこの街でなくてもよくあることだ。
ハウンドファングが殺さなくても、大義がなくても、本人が悪いことをなにもしていなくても、人は死ぬ。
運が悪かったと言ってしまえばそれまでの、『そういう巡り合わせ』だったのだ。
自分はどんな死に方をするんだろう。きっと、ろくな死に方はしない気がした。でも、どうでもいいことだ。だって死んでしまえばそこで終わりなんだから、痛みもなにも感じないはずだ。
世の中には生まれ変わりがどうとか、死後の世界がどうとかいう話があるらしいが、ハウンドファングの教官や仲間はみな『死ねばただの肉塊』と言う。
間違いではないので、否定する気は微塵も起きなかった。
天国も地獄もないなら、どんな非道を繰り返しても行き着く先は同じはずだから、ない方がいいのだ。
帰り道、トラックに乗っていたら、ハエが一匹髪にまとわりついてきたので、叩き潰した。
ただのハエなのに、足元に落ちた死骸を見たら、不意にあの子供の声が耳に蘇ってきた。
銃を向けられた時、なにか叫ばれたのだ。
でも、この地域の言葉をエスは学んでいなかったので、言葉の意味はわからなかった。
人は、言葉を学んで心を交わすよりも、銃を向け合う方が簡単だ。
目が覚めた時、一瞬、ここがどこだかわからなくなって、体のまわりをまさぐる。
やわらかな、いい匂いのするシーツが指に触れてきた。
シルクのパジャマを着ている。ただし、汗をびっしょりとかいて肌に張りついているせいで、今はその感触が不快に感じられた。
枕元の銃を取ろうとして、ないことに気づく。そうだ、兄と再会してからは、銃器を渡されていないんだった。
ここは南アルリアの山奥の洋館で、戦場でもなければ、自分を猟犬として飼っていたグランシャリオの施設内でもない。
ほっとしたのと同時に、なぜ自分がこんな、安全で清潔な場所にいることが許されるのだろう、という疑問がわきあがってくる。
罪悪感は強烈な違和感となって、吐き気を誘発させた。
ベッドを汚してはいけないという思いから、トイレに駆け込んで嘔吐した。
嘔吐物の嫌な匂いが鼻をつく。
そういえば、何年か前に同じチームだったハウンドファングが、仕事のあとによく吐いていたな、と思い出す。
いつの間にか消えていたから、名前ももう思い出せない。きっとどこかで死んだのだろう。
吐くだけ吐いて、胃の中を空っぽにした頃になってようやく落ち着いて、テーブルの上の水差しの水をコップについで飲んだ。
不快感はいくらかマシになったが、異様に目が冴えている。今夜はもう眠れないだろう。
ベッドに戻る気は起きなくて、ソファに座っていても余計なことを考えてしまいそうだったから、外の空気を吸うためにバルコニーに出た。
「……っ」
何気なく周囲を見渡して、息を呑む。
隣の部屋のバルコニーに、人影があったのだ。
反射的に警戒して戦闘態勢を取りそうになったが、闇に染め上げられた金髪を見て、すぐにそれが兄であることに気づく。
「……兄さん」
月の光に映し出された湖面をぼんやり眺めていたオーウェンが振り返った。
「あれ……? どうしたの? 眠れないの? それとも、目が覚めちゃった?」
「たまたま、目を覚ましただけだ」
平静を装いながらも、あんな夢のあとなので、正直、顔を合わせづらい。
「怖い夢でも見た?」
「……違う」
見え透いた嘘だろうが、正直には言えなかった。
「兄さんは? どうしてこんな時間に?」
さっき、部屋の時計をちらりと見たところ、今は夜中の二時すぎだったはずだ。
「仕事でね、頼まれてちょっと調べ物をしていたら、遅くなってしまったんだよ。そろそろ寝ようと思っていたところだ」
「そうか。……疲れているところ、邪魔してすまない」
これ以上話したら、兄にはなにもかも見透かされそうな気がして、エスは踵を返す。
「エス」
やんわりと、凜とした声が響く。
「顔色が悪い。もし、体の不調を感じたなら、言ってほしい」
「……体なら、大丈夫だ」
動きを止めたまま、視線は合わせずに、ぎこちなく答える。
「そう? 念のため聞くけど、吐いたりしていないよね?」
「…………」
もうとっくに、なにもかも見透かされているのかもしれない、という気がしてきた。
「言いたくないことは、別に言わなくてもいいよ。でも、心配ぐらいはさせてほしいな。せっかく近くにいるんだから」
オーウェンの言うことはもっともだ。けれど同時に、心配をかけさせたくないという気持ちもある。
なんと答えるべきか迷って、エスは立ちすくんだままでいた。
「……ねぇ、そっちに行ってもいい?」
囁くような声に、有無を言わせぬ強制力はなかった。拒んだとしても、『わかったよ。また明日ね』と引き下がってくれそうな雰囲気すらあった。
オーウェンの顔を見ると、やわらかく微笑まれる。
その顔を見たら、体が勝手に動いて、了承を示すように頷いてしまっていた。
ちょっと待ってて、と言ってから、オーウェンは自分の部屋の窓を外から閉めて、バルコニーの手すりに手をかけた。
隣のバルコニーとの間には、約一メートル程度の距離がある。
オーウェンはひょいと軽くジャンプしただけで、その距離をあっさり飛び越えてやってきた。
「……部屋の窓の鍵、閉めなくてもいいのか?」
廊下の方からくればいいのに、とは思ったが、見かけは品行方正なのに、たまにこういう突拍子もない行動をしてくる兄は、昔からずっと、憧れでもあった。
「大丈夫。ここは安全だし、万が一侵入者がきたら、僕がなんとかするよ」
促されて、二人で室内に入った。
「頭、撫でていい?」
いつも、いちいちそんなこと確認せずとも勝手に撫でてくるくせにどうしてわざわざ聞いてくるんだろうと思いつつも頷いたら、ベッドの上でオーウェンの膝の上に頭を乗せる格好にさせられる。
なるほど、これは……小さい頃はよくやってもらっていたことだが、今となっては少し恥ずかしい。
「……でかくなったのに相変わらず手がかかる子供で、呆れているか?」
「別に子供扱いしてるわけじゃないよ。僕がただ、こうしたかっただけ。……きみと離れたあと、嫌な仕事をしなきゃいけなかった時は、いつもこうして、きみの頭を撫でていた時のことを思い出していた」
ボリュームを落としたオーウェンの声は、甘やかに響く。寝る前に絵本を読み聞かせるのと同じ声音だ。
それは耳に心地よく、今夜はもう寝れないと思っていたはずなのに、とろりと甘い眠気がやってきて、やがて、つま先や指先から力が抜けていく。
「なにか、別のことを考えていないと正気をたもてないと思った時は、いつもきみのことを考えていた。いつまでも弟離れできない子供は、僕の方だよ」
自嘲気味な言葉のわりに、声音は相変わらず穏やかだ。
ゆっくりと一定のリズムで頭を撫でてくる手は優しく、弟をあやす兄のそれだった。
そんな彼にも正気を失いそうになるほど辛いことがあったなんて、今の状況からは信じられない。
兄と離れている間、ずっと、自分は地獄のような世界を生きてきた。でも、それは兄も同じだったのかもしれない。同じ地獄ではなくても、彼には彼なりの地獄があったのかもしれない。
「……嫌な、昔の夢を見たんだ」
「へぇ……どんな?」
過去のすべてを共有することは、今となってはもうできない。
でも、再会してからのことはできるだけ共有したいと思い、エスは、黙っていようと思ったことを話し出した。
オーウェンは、ひたすらに優しい手で頭を撫で続けながら、静かに聞いてくれた。
「エスはその子のことを救いたいと思ったの?」
すべて聞き終えたあと、夢に出てきた子供のことを問われる。
「……わからない。ただ、こんな世界は嫌だと……」
そうだ、嫌だと思ったのだ。
仕方ないと諦めて、割り切っていても、『それが当たり前』だと受け入れるしかない世界が、醜くて汚いと思ったのだ。
子供が銃を取らなければいけないのも。
誰かが死ぬのが日常になっているのも。
そんなのはおかしいと、堂々と言うことの方がおかしいとされていることに、息苦しさを思える。
「……子供が、腹一杯美味しいご飯を与えられて、夕飯のあとは濁ってない綺麗なお湯のお風呂に入れて、ふかふかのベッドで眠って、明日も朝がくることをまったく疑わずに幸せな夢を見られる日常が当たり前になっている場所もあると、オレは知っているから……」
少なくとも、グラノールの街の子供たちの大半はそんな感じだった。
あの街では、砲弾も銃弾も飛んでこないし、外に出れば、ボールやおもちゃを手にした子供が無邪気に遊んでいた。
自分の家族は偽物で、本来はあの街の住人ではなかったわけだけど、ああいう現実も存在するのだとこの目で見たのは事実だ。
最初から紛争地帯で生まれていれば、なんの疑問も持たなかったかもしれないが、あの幸せな世界が当たり前だと思っていた時期もあるから、どうしても、不条理というものについて考えてしまう。
「金があれば、みんな戦わずに幸せに暮らせるのか……?」
「お金だけじゃダメだね。紛争の理由はいろいろあるけど、みんな、お金よりも大事なものを賭けて戦っていることの方が多い。トルネシアだって……グラノールがたまたま平和な土地だったというだけで、無理やりトルネシアに併合された地域では、いまだに、いつ不満が暴発するかわからない緊張感が漂っているところもある」
不穏な言葉を語りながらも、オーウェンの手は相変わらず、一定のリズムでエスの頭を撫で続けている。
「わからない……オレはずっと、命令に従って誰かを殺せば生きるのを許されるだけの生活を送ってきたけど、世界っていうのは、もっと複雑なんだな……」
オーウェンの膝に頭を預ける格好で横向きに寝転がっているエスは、常夜灯に照らされた部屋の窓の向こうの暗闇をじっと見つめていた。
「僕が教えてあげるよ。きみは今まで、戦闘以外の教育を受けてこなかったんだから、仕方ないよ。……知らないことは罪じゃない。でも、知れば、きみが望む世界のために、きみにもできることが、なにか見つかるかもしれないね」
「人を殺す以外にも、オレにできることがあるということか……?」
「きみは幼い頃からとても優秀で、才能に溢れていた。きみにできることなら、たくさんあるよ。ただ、選択肢のすべてを選ぶことはできないから、これからたくさん勉強した上で、どれを選ぶか、自分で決めればいい」
「…………兄さんは、いま、自分のやりたいことをやっているのか?」
返答がくるまで、やや間があった。
「……弟とまた一緒に暮らすこと。それが僕の望みで、そのためにずっと戦ってきた。僕はちゃんと、僕の生きたいように生きているよ」
あたたかな家族の情がこもった笑顔が見下ろしてくる。
気がついたら腕を伸ばしていて、兄の頭に触れていた。
細く艶やかな金髪が指に絡みつく。
撫でるというより髪を梳くように触れると、オーウェンははみかむように口元を綻ばせた。
「今夜は一緒に寝てくれるか……?」
言いながら、子供の頃、兄に何度そうねだっただろう、と考えた。
「もちろん」
拒まれたことは一度もない。
それが今も変わらないことに、ほっとする。
隣に寝転がって、上掛けを肩までひっぱりあげると、オーウェンは珍しく、小さくあくびをもらした。
「夜中に付き合わせて悪い。兄さんは今までずっと仕事してたんだったな」
「大丈夫。夜中まで起きてたからエスと話せた。ちょうどよかったよ」
よく考えたら、バルコニーに出た時、兄の姿がなかったら、自分はどうしていただろう。
あまり考えたくはないが、『ここから飛び降りたらどうなるだろう』という思考になってもおかしくないぐらいの最悪の気分だった。
自分はまた、兄に救われたのだ。
さっきは軽く髪に触れるだけだった手を、今度は明確に、頭を撫でるために動かす。
「……なに?」
「いや……ありがとう。感謝している。でも、どうやって感謝を伝えたらいいのかわからない」
「なら……抱きしめてくれないかな?」
「そんなんでいいのか……?」
自分に気を遣って簡単にできることを言ってくれているのだろうか、と思ったが、腕を回してから、気づいた。
そういえば今は自分の方が体格がいいから、兄を腕の中におさめるのは簡単だけど、小さい頃は、そんなこともできなかったのだと。
「エス、あったかいね」
ふふ、と笑う声も眠そうになってきた。
自分と出会う前、この人にはちゃんと家族がいたのだろうか。親や兄に抱きしめられることはあったんだろうか。
自分は兄にたくさん甘やかしてもらったけど、この人を甘やかす人は、誰かいたのだろうか。
――もしかしたらいなかったかもしれない、と思うと、胸が締めつけられる心地がした。
いい匂いのする髪に頬をすりつけて、それから頭のてっぺんに、キスを落とした。
そのまま静かになったので眠ったんだろうかと顔を覗き込むと、視線に気づいた様子で、眠そうな目蓋が持ち上がる。
うっすら開いた目蓋の下から、今はオレンジかかった光に照らされて色味を変えたブルーグレーの瞳がこちらを捉えた。
光のせいか、潤んでいるように見えた。
「…………」
どうしてそうしたのかはわからない。
ただ、気づいたら体が勝手に動いていて、唇を合わせていた。
数秒、軽く触れあわせるだけだったが、唇を離したあともやわらかな感触の余韻が残っているようで、妙な気分だった。
オーウェンは目を開いたまま、じっとこちらを見ている。
「……だめだったか?」
なんとなく、エスの行動を意外に思っている気配を感じて、問いかける。
そういえば、これまで何度か唇を合わせた時、オーウェンはいつも『ごめん』と謝っていた。自分も謝るべきなんだろうか。
「……だめじゃないよ」
オーウェンはそれ以上なにも言うつもりがない様子で、再び目を伏せると、ごそごそもぐりこんで、エスの胸のあたりに頭を押しつけてきた。
自然と足が絡まる。
ひとりひとりが持っている体温はたいして個人差はないはずなのに、他の人と触れあうと、温度が上がるのはなぜだろう。
心地よいあたたかさに、眠気が増してきた。
「兄さん、おやすみ」
「おやすみ」
ささやかな言葉を交わしてから、眠気に身を任せる。
ともだちにシェアしよう!

