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第15話 グラノール
空港というのはおもしろい場所だ。
さまざまな国籍やさまざまな人種の人間があふれているというのに、争うでもなく、ただ、平和に同じ場所を共有している。
別れを惜しむ人たちもいれば、再会を喜ぶ人たちもいる。出国を待つ時間、ノートパソコンを開いて黙々と仕事に励む人もいれば、退屈そうに本を読む人もいるし、そのへんの売店を眺めて楽しそうにしている人もいる。飛行機に乗る予定もないのに飛行機を見に来ただけの人もいる。
一般市民が利用する国際空港にエスが足を踏み入れたのははじめてのことで、他のどの場所とも違う空港特有の空気に、柄にもなくそわそわしそうだった。
天候の関係で搭乗予定の便に遅れが出ているとかで、オーウェンは状況確認のため航空会社のカウンターに向かったまま、さっきからなかなか戻ってこない。
特にすることがなかったエスは、ロビーのソファに座りながら空港内を観察をして暇潰しをしていた。
目の前には、催事形式の店があって、中年の女性が大声でずっと呼び込みをしている。
焼き菓子の店らしく、ほのかに甘い匂いがただよってくる。
行列ができるほどではなかったが、ひっきりなしに客はきていて、忙しそうだった。
これから出国するというのにお土産用の菓子を買うのはどうかと思うが、なんとなく気になったエスが眺めていると、呼び込みの店員とたまたま目が合った。
「お兄さん、試食どう?」
「……どうも」
明るい笑顔で試食用の小さなクッキーを渡されて、なんとなく受け取ってしまった。
基本的に、毒物対策で見知らぬ者から渡された食べ物は口にしないように教育されているエスだが、今のエスはハウンドファングではないし、店員が暗殺者には見えなかったので、食べてみることにした。
「…………」
けっこう美味しかった。
「明日までの期間限定出店なの。よかったら買っていって」
他にはどんな種類の菓子があるのかと気になったので、立ち上がって、店を覗きにいった。
小さい袋の詰め合わせなら、待ち時間に食べるのにちょうどよさそうだ。
だが、ここでひとつ重要な問題があることを思い出した。エスは財布を持っていなかったのである。
金はいつも隣にいるオーウェンが払っていたので困ることはなかったが、これではいい年して一人で買い物もできそうにない。
「クッキー? 食べたいの?」
立ち尽くしていたら、ちょうど戻ってきたオーウェンが隣に並んだ。
「試食のが美味しかったから、兄さんにも食べてもらいたくて」
空港で菓子をねだる子供みたいな真似をしたかったわけではない、と伝えたくて正直に話すと、オーウェンはくすりと笑ったあと、「どれがいいの?」と聞いてきた。
一番小さいのを指差したのだが、「せっかくだからもっとたくさん入っているやつにしようよ」とオーウェンは言って、一番人気のセットを買った。
「ごめんね。仕事の件で連絡が入って、戻るのが遅くなっちゃった。出発までまだ時間ありそうだから、出国手続きしちゃってからのんびり店とか見て回ろうか」
「ああ」
「この空港、美味しいパンケーキの店があったはずだよ。行ってみる?」
「パンケーキか、懐かしいな」
小さい頃、オーウェンはよく、家でパンケーキを焼いてくれていた。
食べ物に関してはあまり頓着がなく、作ったとしてもシンプルな料理ばかりだったオーウェンだが、パンケーキ作りの腕前は天才的だった。
甘くてふわふわで、エスの大好物だったのだ。
一週間連続でパンケーキをねだった時にはさすがに『もうやめようよ』と言われたが、それぐらい、毎日食べても飽きなかったのである。
同じことを思い出したのか、隣でオーウェンがくすくす笑っている。
「そのうちまた、作ってあげるよ」
一瞬だけ、十数年前に時が遡ったような錯覚を覚える。
◆
世界のどこにいっても空は繋がっているといわれているが、大地の匂いは、その場所によって全然違うと思う。
しっとりと重い南アルリアの空気とは違い、トルネシア西部の空気はカラリと乾燥していた。
懐かしい匂いだ。
国土が広いトルネシアは地域によっても大きな差があるというが、グラノールの街が近づいていくごとに『かつてこの国で生活していたんだ』という実感がこみあげてくる。
政府直轄の研究施設や、国内トップクラスの企業の工場を擁するグラノールの街は昔から綺麗に整備されており、治安もいい。
綺麗な服を着せられた子供が真新しいおもちゃを持って元気に遊んでおり、その横を、ビジネスマンが颯爽と通り過ぎていく。
浮浪者はいないことはないと思うが、とりあえず今のところは一人も目にしていない。
道で物売りをする孤児もいないし、骨と皮だけになるほど痩せ細った人間が道の端で座り込んだりもしていない。
ふくよかなマダムが、派手な服を着せた犬を散歩させたりもしていた。
少々大きめの自転車を乗り回していた子供が道路の段差で転んだところを、バスの信号待ちの時に、たまたま目撃した。
たまたま近くを通りかかった様子の老婆が、自転車のカゴからこぼれたオレンジを拾って子供に手渡してやっている。
平和な光景だった。
貧しくて危険で、常に死と隣り合わせの地域とはあまりにも別世界すぎて、目眩がしそうになる。
でも、多分自分も昔は、これが当たり前の世界だと信じこんでいる幸福な子供たちの一人だったのだ。
きっと、あの子供たちは、いまこの瞬間も、世界のどこかで戦争が起こっていたり、食べるものがなくて死んでいく同い年ぐらいの子供がたくさんいることなど、考えもしないのだろう。
自分もかつてはそうだった。
「着いたよ」
バスに乗り込んでからはずっと黙っていたオーウェンに声をかけられて、バスを降りる。
大通りから少し入ったところにある閑静な住宅街。
中流以上の家庭の一軒家が建ち並ぶ一帯は緑も多く、細い私道ではたいてい、近所の子供が誰かしら遊んでいた。
その奥、他の家の影に隠れるようにして建つ白い屋根と白い壁の家。
その前に停まる黒いクラシックカー。
入り口は狭いが背後に森があり、建物の裏側の土地は意外と広い。
それが、記憶に残るロゴフ一家の家だった。
今はもう、面影も残っていない。
最初はなにかの間違いかと思って兄が持つ携帯端末の地図で確かめてみたが、住所上は完全一致しているその場所は、今は大型のショッピングモールの駐車場の一部になっていた。
家は残っていなくても、せめてあの森だけはまた見れないだろうか、という淡い期待は打ち砕かれた。
「ごめん、僕は知ってた」
視線をそらしながら、オーウェンは呟いた。
「いや……あれから十二年もたってるんだからな。仕方のないことだ。連れてきてくれてありがとう、兄さん」
「うん……」
そっと寄り添ってきたオーウェンが、今は自分よりも高い位置にある弟の頭を慰めるように撫でてくる。
「……エスを失望させるためにわざわざこの場所に連れてきたわけじゃないんだ。ただ、もう一度一緒に、この街の空気を吸いたかった」
「大丈夫だ、わかってる」
手を繋ぐと、不思議と、手を繋ぎながら家に帰った遠い日の自分たちの残像が、鮮やかに蘇ってくる。
この街で育った。
この街で、はじめて『家族』と暮らした。
この街でたくさんのことを学んだ。
この街で、たくさん笑った。
この街で、たくさん泣いた。
あの五年間に、これまでの人生のすべてが凝縮されているように感じる。
血が繋がっているかどうかとか、そんなことはどうでもいいのだ。
家族ごっこの裏側にどんな目的があったとか、関係ないのだ。
あの五年間の思い出は自分にとってすべて宝物で、ともにすごした兄は、何物にも代えがたい愛しい存在なのだ。
あの五年間があったからこそ、自分はただの人殺しでもなければ、武器でもなく、猟犬でもなく、『一人の人間』なのだと思える。
今の自分の手がどんなに汚れていたとしても、記憶の中のあの日々の美しさが汚されることなど、決してあり得ないのだ。
「……オーウェン・ロゴフが、オレの兄でよかった」
「光栄だね。僕も、エス・ロゴフが僕の弟でよかったと、心から思うよ」
「光栄だ」
「ふふ」
笑い合うと、絡め合っていた指をほどいた。
ショッピングモールの目の前だけあって、周囲は賑やかだ。感傷的なキスを交わすような雰囲気ではなかった。
「せっかくだからここで買い物して、食事でもしてく?」
「それもいいが、昔通ってたおもちゃ屋とか本屋が残っているのかどうか見てみたい」
「そうだね。もう少しいろいろ歩き回ってみようか」
ゆっくりと歩き出す。
髪を揺らす風の匂いは、昔のままだった。
それから、たくさんの写真を撮った。
昔と変わっていた場所もあれば、変わらない場所もあった。
散々歩き回って、夕暮れ色に染まる街並みを二人はぼんやりと眺めてあてもなく歩いていた。
そろそろ帰ってもよかったが、『帰ろうか』と言い出せずにしばらく無言でいた。
帰りたくなかった。ずっとここにいたかった。またこの街で、普通の兄弟のように暮らしたかった。
多分、オーウェンも同じ思いだろう。
でもそんなことはできないことも、二人はわかりきっていた。
「エス、バイクって運転できる?」
オーウェンが唐突に言い出したのは、レンタルバイクショップの前をたまたま通りかかった時だった。
「できる。任務で使うことはよくあったから」
「ちょっと、僕を後ろに乗せて走ってみない?」
オーウェンの意図を察したエスはすぐに頷く。
さっきからずっと、何者かにつけられている。
なにか仕掛けられるのは時間の問題だろうから、ひとまず振り切った方がいいだろう。
「どれがいい?」
小回りがききやすくて二人乗りするのによさそうなタイプを選ぶと、オーウェンはすぐにレンタルの手続きに行った。
もしかしたらちゃんと返却できないかもしれないけど、その時はその時だ。
「どっちに向かう?」
「そうだね……とりあえず、海の方に」
走り出してすぐに、一台の白い車がスピードを上げ始めたのに気づいた。
後ろにつかれるのを防ぐため、細い道に入る。
すると、今度は黒いバイクが追いかけてきた。
運転手は全身黒いライダースーツを着ている。フルフェイスのヘルメットをしているので顔は見えないが、その身のこなしは、どう見てもハウンドファングだ。
トルネシア国内にも、それなりの数のハウンドファングは潜んでいる。
ハンドルを握りながら片手でハンドガンを撃ってきたので、すかさずオーウェンが応戦する。
銃は、空港を出たあと、トルネシア国内で極秘裏に活動するサザンクロシードの関係者から受け取ったものだ。
片手でエスの腰に掴まりながらオーウェンが撃った弾のひとつが追跡車のタイヤに当たり、黒いバイクがひっくり返る。
再び大通りに出ると、さっきの白い乗用車ではなく、軍用の黒い装甲車が他の一般車両を押しのけるかたちで追いかけてきた。
「覚えてる? この道、僕たちロゴフ一家がグラノールの街から撤退する時にも使った道だよ」
スピードを上げたせいで風圧が強かったが、背中にぴたりとくっついてきたオーウェンの声は、インカム越しにしっかりと聞こえてきた。
道路脇のバーガーショップの看板に、エスはちらりと視線を走らせる。
あのバーガーショップに家族でたびたび食事に行った記憶はあるが、街を出る時に見た記憶はない。あの時のエスは、途中からずっと顔を伏せていたから。
だが、兄がそう言うということは間違いないのだろう。
「オレたちはつくづく、この街から平和に立ち去れない運命にあるということか」
残酷な運命を認めるようにエスが呟いた直後、装甲車の上部から出てきた黒ずくめの兵士が、矢のようなものを放ってくる。
鏃は地面に直撃し、爆発を巻き起こした。
かろうじて回避したが、近くにいた数台の一般車両が巻き込まれた。
勢いをつけた反動で高く飛び上がったバイクが、数台の車の屋根の上を跳ねるように走行したあと着地する。
「警察がきそうだね。トルネシアの警察にまで目をつけられたら厄介だなぁ」
あせってはいないがめんどくさそうなオーウェンの声がぼやく。
「さすがに今回は、脱出用の潜水艦は用意してないよな?」
「なに? また乗りたい?」
「いや、二度と乗りたくない」
あはは、とオーウェンが軽やかな笑い声をあげた。
「大丈夫。もう二度と、きみの手を離したりはしないよ」
「…………」
思い出に浸っている暇もなく、白い車が眼前を塞いできた。
飛び越えてよけたいところだったが、間に合わない。
「エス、右」
言われた通り、右にハンドルを切った。
接触する直前だった白い車に向かって、オーウェンがなにか放り投げるのが見えた。
直後に大爆発が起こる。
爆風を振り切るかたちでスピードを上げ、バイク一台通るのがやっとの細い路地を抜ける。
視界が開けたと思った途端、二メートルほどの幅の川が目の前に現れたが、さらに加速してそのまま飛び越えた。
アクション映画ばりのスタントは無事に成功したが、さっきとは別のバイクが二台ほど接近してきていた。
「Uターンしてくれる?」
オーウェンの意図を察したエスは、今度は振り切るのではなく、追跡車に向かっていく。
激しい銃弾の応酬となる。
すれ違いざまに左右を敵のバイクに挟まれて引きずられそうになった。
右側をエスが蹴り飛ばして、左側をオーウェンがナイフを飛ばして仕留めた。
しかし、そこからロゴフ兄弟の乗るバイクはいきなり失速することとなる。どこか高い建物から狙撃されて、前輪をやられたからだった。
「エス、走って」
すかさずバイクを放り出して着地すると、冷静な声のまま、オーウェンが囁きかけてくる。
少し走ると橋があって、その下には線路があった。
ちょうど、特急列車がこちらに向かって走ってくる。
オーウェンと顔を見合わせる。
「大丈夫。僕と呼吸を合わせて」
こんな状況でも、オーウェンは笑っていた。
日が沈む直前の赤い日差しに照らされた顔が美しくて、一瞬、目を奪われる。
しかし、エスはすぐに頷いて、言われた通り、繋いだ掌ごしに伝わってくるオーウェンの脈拍と、呼吸を感じ取ることに集中した。
腰を抱き寄せられて、橋から飛ぶ瞬間、ふわりと体が重力を無視して浮いた気がしたが、瞬きする間の出来事に、深く考えている余裕はなかった。
特急電車の屋根の上に、二人は着地していた。
茜色に染まる故郷の街並みが、あっという間に遠ざかっていく。
空の色が、かつての家を焼いた炎の赤を思い出させた。
目を細めて見送っていると、オーウェンがぎゅっと手を握ってきた。
過去に飛びかけていた意識が、現在に引き戻される。
「大冒険だったね」
「……なかなか楽しかったな」
「ほんとに」
窓から車内に侵入すると、乗客はびっくりしていたが、オーウェンがにこりと微笑みかけると、目撃した者たちはなぜか黙り込んでしまった。
追跡者がいないとも限らない。
一応、次の駅に着くまでの間、トイレに身を潜めることになった。
「エス、怪我してるね」
「ああ……弾がかすめただけだ。たいしたことない」
そうは言っても右の二の腕から、けっこうな量の血が流れていた。
エスの上着を脱がせると、オーウェンは素早くハンカチで腕を縛って止血してくる。
「痛い?」
「慣れてるから平気だ」
「昔は、転んで膝をすりむいただけでも泣いてたのにね」
「いつの話だ」
くすくす笑うと、オーウェンはハンカチの上から傷のあたりに口づけて、もう一度上着を着せてくる。
「あとできちんと消毒しよう」
「……今度は、ちゃんと役に立てたか?」
「グラノールから逃げる時の話?」
「そうだ。十二年前、オレは、戦ってる兄さんの隣で、うずくまっていることしかできなかった。……今から思うと、お荷物だったな」
「あの時のきみはなにもわからない状況だったんだから、仕方ないよ」
なだめるように、頭を撫でられる。
「今日は、一緒に戦ってくれてすごく心強かったし、カッコよかったよ。……いい男に育ったね」
「……そうか」
それならよかった。
戦うことは、時に痛くて苦しくて辛いものだけど、無力なまま何もできない方が、よっぽどしんどいから。
頭を撫でていた手が頬に触れてきて、綺麗な顔が近づいてきたかと思うと、ちゅっと口づけられる。
ちょうどその直後、カーブに差し掛かった列車が揺れて、オーウェンの体がぶつかるようにもたれかかってくる。
反射的に腕を伸ばして、抱きとめていた。
揺れはすぐにおさまったが、どうしてだか離れがたく、二人とも、身じろぎせずそのままじっと抱き合ったままでいた。
触れた部分から、あたたかで穏やかな家族の情とは違う何かが生まれていくのを感じる。
長いこと波立つことを忘れていた感情の海が、得体の知れない、嵐のようなエネルギーを孕んでいくのを感じる。
ただ、今はその感情を、どう扱っていいのかわからない。
細い金髪に指を絡めてきゅっと握りしめると、腕の中で、オーウェンがくすりと笑う気配があった。
「せっかくだから、昔、家族で行ったレストランでハンバーグでも食べようかと思ってたのに、食べ損ねちゃったね」
「ああ……そういえば、夕飯を食べていないな」
何日も食べなくても普通に動ける訓練は受けているので一食抜いたぐらい別にどうということはないのだが、ここ最近は規則正しく毎日三食食べていたため、やけに夕飯が恋しく感じられた。
「今日は外で食事するのは危ないかもしれないから、なにか適当に買って、宿で食べようか」
「そうだな」
「エス、ハンバーガー食べたいって言ってたよね?」
「ポテトもセットで頼む」
「ふふ、いいよ」
足元から、ささやかな揺れと、エンジンの振動が伝わってくる。
故郷を二度も追われることになったわけだが、今度はもう、兄に置いていかれることはない。そのことに、自分でも思っていた以上にほっとしていることに気づいた。
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