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第16話 流れ星
できるだけ目立たない宿を探して、たどり着いたのは、繁華街の端でぽつんとピンクに妖しく光るモーテルだった。
屋根があるだけマシだ、と思っていたエスは特になにも考えていなかったのだが、中に入ったあと、ベッドの横に、壁も衝立もついていないバスタブがあるのを見て、なんともいえない感情に襲われる。
「見て、エス、バラの花びらが用意されてるよ。これ、お湯に浮かべるのかな? それともベッドに散らした方がいいのかな?」
「…………好きにしてくれ」
エスの困惑を読み取ったオーウェンはおかしそうに笑っていて、楽しそうですらある。
しかし美しい顔立ちは、すぐに真剣なものに変わっていた。
「服、脱いで。傷の状態を確認する」
「……兄さんの傷は」
「僕の傷はもうほとんど塞がっているから問題ないよ」
下着以外のものをすべて脱いで、全身を隈なくチェックされることになった。
「ねぇ、太腿も怪我してるじゃないか。そういうことは早く言って」
「……悪い」
太腿の方は、爆発物の破片が突き刺さってできた傷だった。
細かい破片を丁寧に取り除いて、消毒をして薬を塗られ、ガーゼが貼られる。
「悪化するようなら、僕の血をまた与えるけど……」
「いや、それはいい」
なんとなく、よくないことのような気がした。
「そうだね。どんな副作用が出るかわからないから、緊急の時以外は、やめておこうか」
他の傷も完璧に処置されて、終わる頃には、途中で買ってきたバーガーのセットは冷めてしまっていた。
深紅のバラの花びらが入った皿は結局、バスタブに浮かべられることなく放置されている。
二人とも、血や煤や泥を綺麗に洗い落として部屋に備えつけられていた白いバスローブに着替えるだけで、気力を使い果たしていたためだ。
冷めてふにゃふにゃになりかけたポテトをかじりながら、そういえばグラノールでの一件はニュースになっているのだろうかとふと気になってテレビのリモコンを押したら、画面いっぱいに、女の裸が映し出された。
女は男に後ろから挿入されて、大きな胸を揺らしながらあられもない声をあげている。
「あー……そういうホテルだからね。アダルトチャンネルも見られるようになってるんだよね。興味あるなら見てもいいよ」
コーラの入ったカップのストローから口を離して、少し疲れた様子のオーウェンが興味なさそうに言ってきた。
「他にもなにかやってるかな?」
エスが黙り込んだまま固まっていると、オーウェンが別のチャンネルに切り替える。
画面が切り替わったが、そっちもアダルトチャンネルだった。
ただし、女優の雰囲気は先ほどとは違う。今度は短めの金髪で、スレンダーな体つきと白い肌が綺麗だが、胸はあまりふくよかとは言えない女が、三人ぐらいの男を同時に相手にしている。
「どっちが好み?」
冷やかすでもなく、だるそうな調子のままオーウェンが問いかけてくる。
どういうつもりだろう。兄の考えが読めない。
「……どっちも好みじゃない」
「そう?」
「……兄さんの好みは……?」
そんなこと、聞きたくなかったはずなのに、つい口がすべった。
「僕?」
おもむろに、ごろりとオーウェンの頭が膝の上に転がってきた。ちなみに、怪我をしていない方の膝である。
「いま、目の前にいるよ」
ブルーグレーの瞳は、虚ろに画面の女に向けられているようだった。
「あの金髪の女……?」
「いや、そっちじゃない」
「まさかとは思うが、あの太った男……?」
いま、画面の中では、女の口に一物を押し込んでいる男のだらしない腹が映っていた。
膝の上で、くすくすと鈴を鳴らすような笑い声がもれる。
「違うなぁ」
白い指先が伸ばされてきて、エスの頬を撫で、唇の輪郭をそっとなぞる。
悪戯っぽい笑みを浮かべたブルーグレーの瞳が、こちらを見上げていた。
金髪の毛先がするりと膝の上から離れて、宙で揺れる。
首に腕を回されて、頭だけ持ち上げたオーウェンに、ちゅっと口づけられていた。
「わからない?」
「……わかった」
感情が追いつかないまま、エスはいつもの癖で、反射的に答えていた。
エスは少しためらってから、離れていこうとするオーウェンの頭を引き寄せて、自分から口づけていた。
「オレもたぶん……同じだ」
「そう」
最低限のやりとりだったが、二人にはそれでじゅうぶんだった。
オーウェンは満足そうに頷くと起き上がって座り直し、テーブルの上のバーガーの包みをエスに渡す。
「食べなよ。まだ美味しいうちに」
アクション映画のラブシーンもなかなか大胆だと思っていたが、アダルトチャンネルの映像の方が明らかに露骨だった。
他人のそういう行為を直接目にする機会はそうそうないので、映像でも見ていたら少しは勉強になるだろうか、と思って食事が終わったあともなんとなく眺めているうちに、けっこう時間がたっていた。
「エス、まだ見てたの?」
今回の襲撃の件でどこかと連絡を取り合っていたオーウェンがソファに戻ってきた。
「ああ……なんとなく」
眠かったが、オーウェンがまだ忙しそうだったので眠ることができず、手持ち無沙汰ということもあった。
しかし、そろそろ飽きてきたのでテレビの電源を切ろうとしたところ、リモコンに手を伸ばす前にオーウェンが隣に座ってくる。
「おもしろい?」
「……一応」
パターンはいろいろあるが、基本的にやることはたいして変わらない。基本的なことは学習したと思う。
無表情で抑揚のない返事をするエスの下腹部を、白い手がおもむろに撫でてきた。
「あれ? 反応してないね」
「……触られてもいないんだから当然だろ」
「こういうビデオを見て興奮する人間はけっこういると思うけど」
「他人の情事を見て興奮するのか?」
エスにはちょっと理解できない感覚だった。
「自分に置き換えて考えるんだよ。たとえば自分が、好きな人とする時にどうするかとか……」
顔が近い。ささやくような声にこもるのは色気だと、なんとなく学習してきたエスにはわかるようになってきたが、どう反応するのが適切なのかはわからない。
「手順の参考にはなった」
「へぇ、そう……。エスは本当に勉強熱心だね」
「オレの感覚はだいぶ世間一般とずれているようだからな。今さら普通の感覚が取り戻せるとは思えないが、知識があれば、多少はまともに振る舞えるようになるだろう」
性知識だけの話じゃない。日常生活においても自分はだいぶ世間知らずであると思い知らされることがたびたびある。
今までは知らなくても別に支障はなかったが、これからは、知らないままでは兄に迷惑をかけることもあるだろう。
「きみは真面目ないい子だね」
エスの肩に腕を置いて、オーウェンは横からじっと眺めてくる。
少し落ちつかなさを感じて、エスはリモコンに手を伸ばしてテレビをようやく消した。
「南アルリアに戻るルートは確保できそうか?」
「うん。それなんだけどね、もう少し、トルネシア国内でのんびりしていくことにしたよ」
「そうか」
あの連中をそのまま南側まで連れて帰るのはまずいだろう。エスは納得した。
「ついでに途中でちょっと仕事の用事を頼まれたり情報収集することになりそうだけど、大丈夫そう?」
「問題ない。ただ、もっと他の武器も用意しておいた方がいいだろう。それはなんとかなりそうか?」
「それは大丈夫。……エス、ごめんね」
「なにが?」
「『きみはもう暗殺者じゃない』と言っておきながら、結局また、きみを戦わせることになってる」
「兄さんと一緒に戦えるのなら、それでもかまわないさ」
金の睫毛が切なげに揺れるのを見て、エスは立ち上がった。
「寝よう。兄さんも疲れているはずだ。休んだ方がいい」
いつも完璧を演じようとするオーウェンは自分から疲れたとは言わないが、顔つきが明らかにやつれている。
手を差し出すと、オーウェンはその手を取って立ち上がった。
普通のホテルでは見かけない、丸形のベッドだった。布団と枕カバーには可愛らしいフリルがついている。
ベッドヘッドボードには、コンドームとローションのボトルとティッシュが並んでいる。
その横の操作パネルに、オーウェンが手を伸ばした。
「さっき、室内の案内を見て知ったんだけど、プラネタリウムがついているらしいよ」
「へぇ」
明るかった照明が暗くなり、かわりに、星を模した光の粒が天井に散らばった。
もっとも、あくまでもプラネタリウムの『雰囲気』だけの代物で、星の位置は等間隔になっており、そこに星座を見出すことはできなさそうだ。
しかし、ベッドの上の部分だけ丸形に窪んだ天井に、星っぽく散らばる光を見ていると、不思議と心が落ち着いた。
「……覚えているか? オレが、七歳くらいの冬」
「山の上まで、流星群を見に行ったね」
父が車で連れて行ってくれたのだが、仕事で疲れていたという父は車で寝てしまって、兄弟だけが、草原にシートを引いて寝転がって、空を見上げていた。
「すごく寒かった」
少し早く着いてしまったため、始まるのを待っている間、寒さに震えながら兄の体にしがみついて、兄の肩に顔を埋めていたら、『エス、見て。いま、星が落ちたよ』と言われたのだ。
童話のワンシーンのような瞬間だった。
空を見上げたらちょうど、白い光が一筋、長い尾を引いて落ちてきたところで、『あっ』と声を上げていた。
「綺麗だったね」
「……あの時、兄さんは星に何を願った? 大人になったら教えてくれるって言ってたよな?」
「ふふ」
「……もう、忘れてしまったか?」
「いや、覚えてるよ」
あの日と同じ体勢で、頭上を見上げる兄の顔を見た。
ブルーグレーの瞳の縁が光を反射していて、とても綺麗だった。
「……大人になるまで僕たち二人とも生きていられますように、って願ったんだよ。あの日聞いても、きみには意味のわからない願いだっただろう?」
「……叶ったな」
流れ星のおかげだとは思わないが、オーウェンがそう願ったこと自体に意味はあったのだろうと思う。
「そうだね」
「……オレはあの時、兄さんのそばにずっといられますように、って願った」
「知ってる」
やわらかな声とともに、優しい手が頭を撫でてきた。
エスの願いは叶わなかった。
流星群を見たあとに一緒にいられたのはわずか二年で、そのあとは十二年間、ずっと離れていた。
でも、いまオーウェンはそばにいて、あの頃と同じ表情で星を見上げている。
「ねぇ、いまのきみなら、流れ星になにを願う?」
「そうだな……」
考えを巡らせてみたが、ひとつしか思い浮かばなかった。
「あの時と、同じことを願うよ」
「うん……そっか」
顔が近づいてきて、額が擦り合わせられる。
「そばにいるだけでいいの……?」
「それさえ叶えば、あとはどうでもいい。でも……わがままが許されるなら、兄さんとやりたいことが、たくさんある」
「たとえばどんな?」
囁く声は甘く、想定していなかった感覚を揺さぶってくる。
「……美味しいものをたくさん食べたり、とか」
「それは楽しそうだね」
「いろんな景色を見たり、とか」
「それは僕も望むことだね」
「夜中までゲームをして遊んだり、とか」
なんとなく、言葉が足りない気がして、エスはぽつりぽつりと言葉を繋いでいった。
「なんのゲーム?」
「なんでもいい。トランプでもボードゲームでも……」
ゲームソフトにも興味はあったが、やったことがないし、最近の流行りがわからないのでなんとも言えない。
「…………さっき、テレビでも見ていたようなことは?」
なんのことかは、すぐに思い当たった。
しかし、オーウェンの意図がわからなかったエスは、いったん黙り込む。
黙り込んでいる間、オーウェンの指先は、エスの頬をそっと撫でていた。
「……したい」
言葉を飾ることを知らないエスは、結局、率直に答えることしかできなかった。
「ふふ」
オーウェンは笑った。満足そうな顔だったから、きっと、その言葉を待っていたのだろうとわかる。
「きみが勉強熱心なのは何事に対しても同じだけど、いったい誰と実践するつもりで勉強してるんだろうと気になってたんだけど……」
「そこまでは考えてなかった」
だが、よく考えたら、実践を想定できる相手なんて一人しかいない。
「……もう一回、考え直してみる?」
「なに言ってるんだ。あんた以外いないだろ」
腰に腕を回してぐっと引き寄せると、オーウェンは珍しく驚いた様子を見せる。
「待って、エス、いま怪我をしているから……」
「ほとんどかすり傷だ」
「軽傷の範疇だけど、化膿したら厄介だ。大事にした方がいい」
「…………」
では、どうしろというのか。
誘ってきたように見えたが、ただ気持ちを確かめたかっただけということだろうか。
「……口でもう一回、試してもいい?」
前回、口でされた時は、エスはまったく反応しなかった。いまされたらどうなるのか、確かに気になるところではあった。
「嫌なわけないだろ」
バスローブの前をはだけさせて下着を脱ぐと、太腿の傷に触らないように気をつけながら、オーウェンは下腹部に顔を寄せてきた。
前にされた時よりも、気分が落ち着かない。
全身の感覚がざわざわしている。
吸うというよりキスをするようなやわらかさで唇をくっつけられただけで、ぞくりと腰が疼いた。
「……勃ったね」
「…………」
手間をかけさせるほどの時間もかからなかった。
啄むようなキスを何度が繰り返されただけで、前回は十五分以上しゃぶられてもなんの反応も示さなかった性器は、露骨に存在を主張し始めた。
「ちゃんと、正常な感覚になってきてるみたいでよかった」
安心したように呟いてから、オーウェンは舌を出して愛撫し始めた。
脚の感触とも、手の感触とも違う。
濡れた舌の感触は、信じられないぐらい刺激的だった。
「……っ」
思わず、声が漏れそうになる。
「エスは、えっちなビデオを見ても興奮しないのに、実際に触られたらすぐに興奮するんだね」
「触ってきてるのが、兄さんだからだろ……」
「こういう時は名前で呼んで、って言ったはずだよ」
「……オーウェン……」
吐息まじりに名前を呼んで、細い金髪を掻き乱した。
口を大きく開いて、喉の奥まで咥えられる。
苦しくないのかと思って顔を見たら、白い肌が淡く染まり、ずいぶんと色っぽい表情をしていた。
いくらかの知識を得た今ならわかる。これは、欲情した人間の顔だ。
それを見たらなんだかたまらない気持ちになり、唾液をいっぱい絡められて唇でしごかれているうちに、あっという間に終わりがきた。
「オー……ウェン……ッ」
「ん……」
あっけなさすぎて、自分でも驚いたほどだ。
余韻がおさまるまで、オーウェンはずっと咥えたままでいてくれて、落ち着いた頃に、口の中に出されたものを嚥下する音が聞こえてきた。
「今度はちゃんと僕の口でイッてくれたね。嬉しいよ」
「…………」
ハウンドファングは、例外なく全員、肉体を完全に意識の制御下に置く訓練を受けている。無意識に体が動いてしまうなんて、戦闘時の反射的行動以外では、基本的にはない。
だが、この時のエスは、完全に、自分の意識が想定していなかった動きをしていた。
気づいた時には、オーウェンを組み敷いて、脚を開かせるように片脚の太腿を掴んでいたのだ。
ハッと我に返った時には、愕然とした。
――オレはいま、なにをしようとしていた?
ほとんど本能に近い情動で、衝動的にオーウェンを犯そうとしていたのだ、と気づいて血の気が引いた。
「すまない……」
組み敷かれたオーウェンはいきなりの急展開にきょとんとしていたが、エスの顔色が悪くなるのを見ると、優しく微笑んできた。
「それは今度、ね……」
頬を撫でられ、唇を撫でられ、顔を寄せると、オーウェンの方から軽いキスをされた。
「そんな顔しないで。きみだって年頃の男の子なんだから、なにも不自然なことじゃないよ」
さらに腕が伸ばされてきて、ぎゅっと引き寄せられる。
「体、ちょっと熱いね。怪我のせいで熱を持ってるんだよ。今日はもう、ゆっくり休んだ方がいい」
「…………」
バスローブを整え直してから横になると、当たり前みたいに腕が伸ばされてきて、頭を包み込むように抱きしめられる。
昔から、一緒に寝る時はこの体勢になることが多かった。
懐かしい気持ちと、そうじゃない気持ちが胸の中でまざりあっている。
体も意識もひどく疲れているのに、さっきから心臓の脈が速いままで、正常な状態に戻らない。
慣れ親しんだオーウェンの匂いと体温が、落ち着くはずなのに落ち着かない感情を呼び覚ましている。
「眠れない?」
「…………」
エスは黙って頷いた。
「おはなしでも聞かせてあげようか」
小さい子に語りかける口調のあと兄が話しはじめたのは、幼い頃に何度も繰り返し読み聞かせてもらった絵本のおはなしだった。
ここに絵本はない。あの本は、燃えさかる家に置いてきてしまった。
兄は、十二年前に読んだきりになっていた本の内容を、一言一句、すべて記憶していたのだ。
あたたかくて、少し切ない話だった。
聞いているうちに、なんだか無性に切なくなってきて、涙が溢れていた。
泣くのなんて、十二年前に兄に別れを告げられたあの時以来だ。
長い間、心の上を覆っていた分厚い氷が溶け出すような感覚だった。
氷漬けにされていた心は、今でも麻痺したままだけど、確かに熱を取り戻しはじめていた。
「……兄さん」
おしまい、という言葉で物語が締めくくられたあと、エスはそっと、兄に呼びかけていた。
「なに?」
優しい声が返ってくる。
「Szeretlek」
昔、兄との間でだけたまに使っていた、とある国の言葉。
忘れていたけどいま、思い出した。
それを耳元に囁くと、オーウェンは一瞬、息を止めたあと、力いっぱい、エスの体を抱きしめてきた。
まるで、すがりつくように。
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