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第18話 誰も知らない遠い日のこと
次に意識が戻った時、真っ先に知覚したのは、香ばしい匂いだった。
なんだろう。食べ物、ではない気がする。
首を巡らせて、見覚えのない場所に寝かされていることに気づいた。
本がたくさん並んだ部屋だった。
窓はなく、ベッドの三方は本棚に囲まれていて、奥にはキッチンらしきスペースがある。
キッチンでは、あたたかな湯気が立ち上っていた。
「おっ、目が覚めたか」
あの白髪の老人が廊下からやってきて、こちらに気づいた。
この間はよれよれのシャツを着ていたが、今日はいささかマシな格好をしている。清潔そうなブルーのシャツの上には白衣まで着ていた。
「いい匂いがする。なに?」
他にも気になることはたくさんあったが、口から出たのは、一番どうでもいい質問だった。
「コーヒーだ。飲むか? いや、子供にブラックコーヒーはまずいか。かわりにミルクをあっためてやろう。……いや、ミルクは先日から切らしていたか」
老人はぶつぶつ呟きながら、キッチンの冷蔵庫をごそごそあさりはじめた。
その間に、オーウェンはベッドの上で体を起こしていた。
全身を苛んでいた痛みが消えている。
それに、垢やら砂埃やら泥で黒ずんでいた皮膚が、真っ白になっている。
「手が白い」
「ん? そりゃあ、おまえさんの元の肌の色だろ。髪も綺麗にしてやったぞ。長いこと、風呂に入ってなかったんだろ。汚れを落とすのにだいぶ苦労した」
冷蔵庫から取り出した水の入ったペットボトルをサイドテーブルに置いた老人が、今度はごちゃごちゃとした物置スペースをあさりはじめたかと思うと、鏡を引っ張り出して持ってくる。
本来は壁掛け用と思われる、大人の顔よりも大きいサイズの鏡だった。
淡い金髪の色白の少年が映っていた。
青みがかった灰色の目は元のままだが、他人の顔を見ているような、奇妙な感覚に捕らわれる。
「ぼく、こんな顔してたんだ」
「ああ。ひらひらのブラウスでも着せてやれば、いいとこのボンボンで通りそうだな」
「ボンボン?」
「金持ちのおぼっちゃんって意味だ」
鏡が引き取られて、かわりにペットボトルを差し出される。
「悪い。子供が飲めそうなものはこれしかなかった。水でいいか?」
透明な、綺麗な水だった。ボトルの表面のくぼみに部屋の照明の光が入り込んで、複雑に輝いているように見える。
「泥水以外ならなんでも」
「ははっ……! 泥水は冷蔵庫に入ってねぇなぁ」
老人は、エリック・ゴードンと名乗った。
遠い国から来た亡命者らしい。
オーウェンが寝かされていたのは地下室で、一階部分にもソファとテレビと家具はあるが、ほとんど地下室で生活しているらしい。
エリックは自分の身の上話をほとんど語らなかったが、訳ありであることはなんとなく察しがついた。
オーウェンに投与された薬が具体的にどのようなものであったのかも語られることはなかった。
実験に成功したのか失敗したのかもなにも言われなかった。
ただ、まだ生きていて健康状態を取り戻しているということは、成功したのだろう。
オーウェンがこの家に転がり込んできてから目覚めるまでの間はだいたい五日くらい。そんな短期間で折れた骨が元通りになるわけがないと、子供ながらに理解はできたが、詳しくは聞かなかった。
出て行けとは言われなかったので、そのままエリックの家に居着くことにした。
もちろん、出て行けと言われればすぐにでも出て行く覚悟はあったが、毎日、一日三回、簡素だがそれなりに腹が満たされる食事を当たり前みたいに出されるので、いちいち『ここにいてもいい?』という質問をする気は起きなかった。
エリックは子供相手にあからさまな優しさを見せるような人ではなかったが、冷たくもなく、癇癪を起こしていきなり怒りだしたりするようなこともなかったから、一緒にいるのは非常に気楽だった。
地下には部屋が三つあって、寝室兼キッチン兼リビングの一室の他に、研究用の部屋と、倉庫として使われている部屋があった。
研究用の部屋は絶対に入るなと言われたので、外からチラリと覗いたことしかない。
エリックは研究部屋に一日中こもっていることもあれば、リビングで一日中本を読んでいることもあった。
たまに気が向けば、読み書きを教えてもらえた。
最初に教えてもらったのはこの国の言語だが、棚に並ぶ本の大半は、他の言語の本だった。
気になって質問を重ねたところ、エリックは最初めんどくさそうにしていたが、そのうち、外に出かけた際に、いくつかの言語の教本を買ってきてくれてこう言った。
「俺は人に教えるのが得意じゃないんだ。学ぶ気があるなら自分で学べ」
地下室ではできることが限られていたし、エリックに仕事を与えられることもなかったから、睡眠と食事の時間以外はほとんど勉強していた。
勉強していく中で、気づいたことがある。
エリックは、トルネシア語の発音が一番綺麗で、音声教材と比べてみても、妙な訛りが一切なかった。
よく見れば、棚の本も、トルネシア語で書かれたものが一番多かった。
一度だけ、聞いてみたことがある。
「トルネシア連邦って、どんな国?」
エリックは遠くを見る目をして、一分間ぐらい沈黙したあと、こう答えた。
「でかい国だ。でかすぎて、いろいろと途方もない国だ」
エリック・ゴードンの祖国がトルネシアであることに、オーウェンは気づいていたが、それについて口にしたことはない。
亡命したということはつまり、祖国で暮らせなくなった事情があるということだ。
立場の違いはあれど、本質的には難民と同じようなものだ。
祖国を失い、辿り着いた先でも決して『国民』とは認められない、根無し草。世界のつまはじき者。
そんな老人と子供の共同生活は、『家族』と呼べるほど優しいものではなく、愛情と呼べるほどの絆を結ぶには至らなかったが、おそらく他人には理解できないであろう微妙な愛着と仲間意識のもとに成り立っていた。
オーウェンが住み始めて半年後ぐらいに、倉庫だった地下の一室がいきなり綺麗に片付けられて、古いトレーニング用の機材が並べられるようになった。
「子供は外で遊ぶもんだが、この街は、おまえみたいな異邦者が呑気に外で遊んでられるほど平和ではないからな。適当に、これで体を動かしておけ。運動不足は健康に悪い」
トレーニング用の機材は、どうやら、近くのジムが廃業するとかで処分に困っていたものを、格安で引き取ってきたらしい。
エリックも使い方はよくわかっていなかったようだが、ジムにあったというトレーニング教材も渡されたので、見よう見まねで使ってみることにした。
すっかり健康的になった体は、動かしてみると、おもしろいようによく動いた。
そのうち、地下の倉庫から埃まみれの二階部分に移動したガラクタの中から、映画の映像がおさめられたディスクを見つけてきて、映画スターを真似て格闘技らしき技を練習するようになった。
一緒に暮らし始めて一年が経過した頃、エリックが体調を崩しはじめた。
顔色が悪いことが増えた。咳をしていることが増えた。本を開いたままぼんやりとしていることが増えた。ただでさえ痩せていた体が、ますます細くなってきた。
「大丈夫なの?」
と聞くと、「もう年だからな」と笑って返された。
その時に初めて、エリックが七十九歳であることを知った。
「おじいちゃんだね」
予想していたよりも年上だったので、思わず間抜けな感想をもらしてしまう。
「見りゃあわかるだろ」
年老いた顔に、さっきよりも砕けた笑みがこぼれて、この愛想のない老人も、出会った頃に比べればずいぶん丸くなったのだ、と気づかされた。
エリックが死んだのはそれから一年後のことだ。
病死でもなければ老衰でもない。拳銃自殺だった。
死の間際、エリックはオーウェンに遺言を残していた。
近いうちに、誰かが俺を訪ねてくる。
トルネシア人だったら全員殺して逃げろ。逃走用の金と偽造の身分証は用意してある。
南アルリア連合の関係者だったら、このケースを渡して、保護を求めろ。おまえに新しい居場所と身分をくれるはずだ。
結果は、後者だった。
エリックの死から三日後。
大量の血が飛び散った二階の部屋で――むせかえるほどの腐敗臭の中で、壊れかけた棚に腰掛けて足をブラブラさせながら、オーウェンは来訪者を迎え入れた。
ちょうど夕暮れ時で、二階の窓からは強すぎる夕焼けの光が空を赤く染めていた。
「遅かったね」
遊びの約束をしていた相手にでも声をかけるような口調で言い放った七歳の子供に、サザンクロシードの職員は戸惑っていたが、エリックから言われたことをそのまま伝えてアタッシュケースを渡すと、すみやかに状況を把握したらしく、丁重な案内のもと車に乗せられた。
悲しいとか寂しいとかいう気持ちはあったけど、涙はでなかった。
いつか終わりがくることは、ここでの生活が始まった当初からわかっていたことだ。
嘆くほどの激情は浮かばず、淡々とこの状況を受け入れていた。
結局、二年間も毎日同じ空間で生活していても、エリックとは家族にはなかったということなのだろう。
サザンクロシードの施設に連れていかれ、様々な検査を受けたあとで伝えられたことだが、オーウェンはエリック・ゴードンの研究における『貴重なサンプル』で『実験体』だったらしい。
なるほど、ケースに入れられたマウスと同じ存在だったわけか、とオーウェンは納得した。
しかし、それではあまりにも味気ない。せめて『友』と呼んでくれないだろうかと思ったが、聞くべき相手はすでに死んでいたので、自分たちの間に友情のようなものがあったのかどうかも確かめられなくなってしまった。
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