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第21話 休暇
「兄さん、すごいな、トルネシアは。ポップコーンの種類がこんなにある」
「そうだね。トルネシア国内でも、ここまで揃ってるのはここぐらいだと思うけど」
トルネシアに入国してから十日後。
大人になったロゴフ兄弟は、まだトルネシア国内にいた。
今日はトルネシアでも随一の人気を誇るテーマパークで遊んでいる。
星型のフレームに三角帽子がついた派手なサングラスをかけ、真剣にポップコーンを選ぶ弟は、とても可愛い。
昔は兄と比べると小柄で、頭ひとつ分以上の身長差があった弟は、いまや体つきもガッシリし、身長差は完全に逆転していたが、それでも可愛い。
「決まった?」
せかすようなことでもなかったが、店内のレジの列が伸び始めているのを見て、オーウェンは声をかけた。
「決めた。ハニーバターキャラメル味にする」
感情を感じさせない、淡々とした声でエスが言った。
「バケットは?」
「あれがいい」
エスが指差した先にあったのは、白い猫のキャラクターが黄色いトランクを背負った格好のバケットだ。どうやら、トランクの部分にポップコーンを入れられるらしい。
だいぶ可愛らしいデザインだ。
「……オレが持っていたら変か?」
無言でにこやかな表情を浮かべたオーウェンの反応を見たエスは、思い直したように真面目な顔で問いかけてくる。
「いいや。なにも変じゃない。いいと思うよ」
いかにも子供が喜びそうなデザインだが、このテーマパーク内では、大人であっても子供みたいな格好をしている客が多い。
実際、同じバケットをオーウェンよりも年上の男が首からぶら下げているのを、さっき見かけた。
しかし、戦士特有の張り詰めた雰囲気を持つこの弟が持っていて違和感がないかというと、それはまた話が違う。
とはいえオーウェンにとって、弟はどんな格好をしていても可愛いに決まっているので、どうでもいいことだ。
弟と揃いのサングラスをかけ、白いふわふわの耳がついたキャップをかぶったオーウェンは、レジに向かう列に並んだ。
傍から見れば、他の客と同様に浮ついた格好をした一般客に見えることだろう。
二人がどうしてこんなふざけた格好をして呑気にテーマパークに遊びにきているのかというと、もちろん遊ぶためだ。ついでにいうと、数日前からまとわりついてきている連中に『観光にきただけです』とアピールするためであった。
グランシャリオの手の者は、あれ以来、姿を消した。
時折気配は感じるが、直接手を出してきてはいない。
どうやら、街中で派手にやらかしたせいで、トルネシアの連邦捜査局に睨まれたせいらしい。
もちろん、オーウェンたちも連邦捜査局にマークされている。下手な動きをすれば、即刻取り押さえられるだろう。
さっさと出国すればいい話でもあるが、疑われたまま国外に逃げるのもあまりよろしくない。
ついでにいうと、トルネシアの領内から一歩出た途端、再びグランシャリオの襲撃を受ける可能性も高い。
せっかくわざわざトルネシアに来たことだし、適当に遊び回って時間を稼ぎ、グランシャリオと連邦捜査局を弄んでやろうという算段だった。
昨日は映画館に行った。
何が見たいかと問いかけたところ、エスは並んでいるタイトルの一覧を眺めてたっぷりと悩んだのち、アニメ映画のタイトルを口にした。
シアターに入ってみると、客席には十代の若者が多かった。もっと幼い子供もちらほらいた。
大人もいたのでオーウェンとエスだけが浮いているということはなかったが、無邪気な歓声をあげる子供にまじって勇気と希望に溢れたヒーローアニメ映画を見るという経験がなかったオーウェンは不思議な心地だった。
一緒にグラノールで暮らしていた頃は家以外の場所で映画を見ることはなかったし、その後の人生も、死と隣あわせの仕事に明け暮れてばかりで、休日に友人と遊ぶような生活は送ってこなかった。
オーウェンは、仕事の付き合いで他人と一緒に映画を見たことはあるが、その時に見たのは、確か、哀愁漂う切ないラブストーリーだったはずだ。
エスにいたっては、もっと過酷な環境で生活をしてきたから、映画などという娯楽に触れる機会もなかっただろう。
エスは最初から最後まで無表情のままスクリーンをじっと見つめていた。
ただ、紫の瞳に時折、キラキラした光が浮かぶのは、見ていて楽しいものがあった。
幼い頃、エスは本当はスーパーヒーローになるのが夢であったことを、オーウェンは知っている。
終わったあと、「おもしろかった?」と問いかけたオーウェンに、エスは「ああ」とだけ短く答えたが、そのあとで、「子供っぽい映画に付き合わせてすまない。今度は兄さんが見たいやつを見よう」と申し訳なさそうに言い出したのは可愛かった。
幼い頃はもっと、どこにでもいる恵まれた子供のように、表情豊かで、喜怒哀楽がわかりやすい子供だった。
再会したあとは、一切の感情が失われた機械人形のようになっていたが、この子の心根は昔とまるで変わっていない。
それを感じ取れる瞬間が、とても嬉しい。
「さすがに射撃の腕は完璧だね。隣で撃ってた小さい子が唖然としてたよ」
なにもこんなところまで来て銃を撃つ遊びをしなくても、という話なのだが、人気のアトラクションは混んでいるため、二人は比較的すいている、シューティングゲームのアトラクションに何気なく立ち寄っていた。
成績優秀者のみがもらえるという特典のカードを見事に獲得したエスが神妙な面持ちでそのカードを見つめているのを見て、オーウェンはさっきから笑いが止まらない。
「兄さんは、素人っぽい動きをするのがすごく上手いな」
オーウェンも一緒に挑戦したが、オーウェンの成績ではあと一歩及ばず、カードをもらい損ねていた。
もちろん、一般人を装うために手加減した結果だ。
「僕は、スパイみたいな仕事をこなすことが多かったから、人前で目立たないようにする習慣がついちゃってるんだよね」
「兄さんは、顔だけでもじゅうぶん目立つんじゃないのか?」
「僕の顔はひとつじゃないから」
なにか思案するように、エスは視線を足元に落とした。
「……オレは、気配を殺すことはできても、一般人の真似事は上手にできそうにない」
「大丈夫。一般人と同じ振る舞いはできなくても……自然に笑えなくても、きみにできることはたくさんあるよ」
仮面のように張りついた無表情の頬に、指先を滑らせる。
最初に出会った時も、感情の表現の仕方を知らない人形のような子だったな、と思い出した。
でも、一緒にすごす時間が増えるうち、いつの間にか、屈託なく笑ってくれるようになっていた。
この子が笑う顔は、本当に、この世の誰よりも可愛らしかった。
この子が笑えなくなったのは、ハウンドファングとしての生活が長く続いたせいだ。
もっと正確に言うなら、ハウンドファングにされることをわかっていてこの子の手を離してしまった自分の責任だ。
そのことが、どうしようもなく、胸に重くのしかかる。
弟を取り戻すことはできても、離れていた十二年という月日を取り戻すことは、永久にできないのだと突きつけられる。
頬を撫でる手をエスはそっと掴んだあと、指を絡めてきた。
「次はあの、船のやつに乗ってみたい」
「ああ、いいね。行ってみよう」
弟の手を引いて歩き出した。
素直に自分の希望が言える環境に連れてこられたのは、本当によかった。
今は、どんなわがままでも聞いてやろう。
任務で体を酷使するのには慣れていたが、一日中、娯楽のために歩き回るというのはあまりない経験で、日が暮れ始める頃には、いささか疲労を感じるようになっていた。
少し休憩しよう、と一緒にベンチに座ったが、エスが隣に座っていたのはわずかな時間で、すぐに「飲み物を買ってくる」と言ってどこかに行ってしまった。あの子は本当に元気だ。
弟の姿が見えなくなってから、入れ違いで、隣に座る者の気配があった。
「そろそろ帰ってくれませんか? 僕は、こういう人が多いところは苦手なんです」
視線を合わせぬまま、隣の男が話しかけてきた。
朝からずっとつけられているのは知っていたので、オーウェンは驚かなかった。
おまけに相手は顔見知りだ。
「あれ? ここはトルネシア国内だよ。きみたちの管轄外じゃないのかい?」
線の細い、黒髪の青年だった。
確か、オーウェンよりも二つ年下の二十四歳と聞いているが、顔立ちは幼く、十代にも見える。
「あなたほどの大物が国内を堂々とうろうろしていたら、我々も無視することはできません」
「別に、なにも悪いことはしてないよ。ただちょっと、思い出の地を見に来たら、ルビリオの亡霊に絡まれただけだ」
「彼らの存在は非常に厄介です。トルネシア国内に面倒事を持ち込むのはやめてください」
本当に迷惑そうな声だった。
「僕のせいで嫌な上司にわざわざ呼びつけられたのなら謝るよ。胃薬でもあげようか? イツキ」
オーウェンは優雅に微笑んだ。
イツキ・カブラギ。
トルネシア中央情報局の情報収集官だ。
本来は国外で活動するのが彼の仕事であり、仕事柄、現場でオーウェンとかち合うことも多い。
協力したこともあれば、敵対したこともある。
時には『使える』が、時には『面倒』な相手であった。
イツキは力なく首を横に振った。相当疲れている様子だ。
もともと、体力がないのだ。そのせいで上司にたびたび嫌味を言われていることを、オーウェンは知っている。
「その帽子は、自分で買ったの?」
イツキは、白いシャツにジーンズという地味な私服姿に、ヒョウ柄のウサギ耳がついた可愛らしいふわふわのキャップを被っている。左右のたれ耳の横からは長い紐がたれさがり、紐の先には、ヒョウ柄のポンポンがついている。どう見ても彼の趣味ではない。
「嫌な上司に渡されたものです」
「……まさかと思うけど、アーサー、ここにきてる?」
「来てます」
オーウェンの顔から笑みが消え、すぐに立ち上がった。
「待ってください」
オーウェンの指と同じくらい細い手が伸びてきて手首を掴まれそうになったが、その前にかわして、歩き出す。
「もう少し、二人でお話しませんか?」
「そういう時間稼ぎ、下手だよね、きみ。またアーサーに怒られるよ」
「グラノールでは最後までゆっくりできなくて残念でしたね」
歩きながら、追いかけてきたイツキが語りかけてくる。
「…………」
連邦捜査局がこちらを追跡していた情報はしっかり伝わっているらしい。
「よろしければ、今度は我々が正式に招待しますよ。あなた方がかつて住んでいたのとよく似た家を提供することも可能です」
「へぇ、ずいぶんな歓迎ぶりだね。見返りになにを求めるつもりかな?」
「気に入ったのなら、ずっと住んでいただいてもかまいません」
「……さすがに冗談だと思うけど、亡命しろって言ってる?」
相手をするつもりはなかったが、歩調がゆるやかになる。
「あなたがSAUのためではなく、弟を取り戻すためにずっと働いていたのは知っています。目的を果たしたいま、SAUに尽くす意義は失われたのでは? ルビリオの亡霊を追い払いたいのであれば、我々の方がよっぽど役に立つかと」
「さっきと言ってることが逆だけど」
「アーサーにそう言えと命令されたので」
「ふはは」
渇いた笑みをもらし、再び歩調を速める。
エスは一番近くの売店に向かったものかと思われたが、そこにあのグレーの髪の長身姿は見つけられなかった。
「どこにいる?」
早足のオーウェンよりも遅れ気味ながらもなんとかついてきているイツキに問う。
「知りません」
「…………」
知ってはいたが、使えないやつだ。
嘘なら口車に乗せて聞き出すところだが、今のは嘘ではなさそうだ。
夕方になってもテーマパーク内の客は減る気配がない。平日だというのに、家族連れやカップルや友人グループがごった返している。
この中で目視だけで人探しをするのは容易ではない。
オーウェンは携帯端末を取り出して、エスが持っているはずの端末の位置情報を確認した。
わりと近い。ここから歩いて五分くらいだ。
おとぎの国の城を模した小さな建物の裏手で、場違いなくらい険しい空気を纏った長身の男二人が向かい合っている。
「エス」
「……兄さん」
声をかけると、いつもと変わらない調子の弟の反応が返ってきてほっとする。
今のところ、まだ危害は加えられていないようだ。
オーウェンは次に、弟と同じくらい長身でガタイのいいライトブラウンの髪をオールバックにした男に目を向けた。
「久しぶりだね、アーサー・デューイ。まだ生きてたんだ?」
「おかげさまで、昇進して現在は本部勤めだ」
旧知の相手との再会にしては冷ややかな声を発したオーウェンに、相手も同じくらい冷ややかな声を返してくる。
「へぇ。現場でもうきみの顔を見なくてすむのかと思うと、気分がいいね」
「ルビリオが崩壊に向かっているさなかの激動の地で、死線を共にくぐり抜けた戦友に、もっと他に言うことはないのか?」
「戦友? トルネシア国民以外を同胞と認めないくせに、よく言う。都合がいい時に利用し合っていただけだろう」
弟の前では極力、誰に対してもこういう態度は取らないようにしていたが、今回は相手が相手だ。致し方ない。
とてもテーマパークに遊びにくる格好とは思えない、洒落たクリーム色のスーツに、青と黄のネクタイを締めた男は、トルネシア中央情報局の男だ。
今から五年前、北アルリア最大の大国、ルビリオ帝国は内戦によって完全に解体され、ラバンズ連邦として再編された。
最初に暴動が起きたのは十年前。
激動する時代の移り変わりと、混沌とした人々の中、オーウェンは行方知れずになった弟を探すため、北アルリアの各地を駆けずり回っていた時期があった。
その時に知り合ったのが、トルネシアからきた工作員であったこの男だ。
当時は、トルネシアと睨み合うよりも一時的に協調した方がいいというのがSAUの見解で、グランシャリオの残党に関する情報を掴むためならありとあらゆる手を使っていたオーウェンは、当然のことながらこの男も利用することにしたという次第である。
「どうせ死んでいるだろうと何十回も言ったはずだが、生きていたんだな、おまえの弟。よかったじゃないか」
昔から、上から目線の偉そうな物言いが鼻につく男であったが、本部勤務になり、磨きがかかったように感じる。
「必ず生きていると、僕は言っていたはずだ」
エスの腕を掴んでこちらに引き寄せる。
「兄さん、すまない。勝手にいなくなったりして」
「エス、この男になにを吹き込まれた?」
「彼はグランシャリオの内情を知る重要な人物だ。いろいろと話を聞きたいと思ってね。ディナーに誘っていたところだ」
「は……」
兄弟の会話に口を挟んできたアーサーに、オーウェンは皮肉っぽく笑った。
ディナー? そんな優雅なものではないだろう。ようは事情聴取だ。
「ここはトルネシア国内だ。国内での捜査と逮捕権は中央情報局にはないはず。管轄外では?」
「もちろん、無理にとは言わない。トルネシアとSAUは現在、対等かつ良好な関係を保っている。きみたちを一方的に拘束したとなれば、SAUとの信頼問題に関わるだろう。だから、きみとは昔馴染みであるわたしが、個人的にお誘いしにきたわけだ」
「せっかくのお誘いだけど、お断りするよ。ディナーならもう予約済みだ」
周辺に、アーサーとイツキ以外にも局員が配置されているのがわかる。こちらを取り押さえようと思えばいつでも取り押さえられる状況だ。
しかし、ここはトルネシアを代表する、平和の象徴たるテーマパーク。
そこで荒事を起こしたとなれば完全に秘匿するのは難しく、なにも知らない一般市民から非難を受けることになる。
彼らとしても、穏便にすませたいはずだ。
頑ななオーウェンの態度に、アーサーはにこりと微笑んだ。
俳優のように目鼻立ちがハッキリしていて整った顔をした男だが、浮ついた雰囲気も、隙も一切ない。
今は中央情報局に籍を置いてはいるが、この男は軍隊出身だ。軍人特有の鋭利な空気は、周囲を威圧するものがある。
「オーウェン・ロゴフ」
「…………」
「調べさせてもらったよ。かつてその名前で、トルネシア国内に潜入していたようだね。わたしが知るきみの名前はルイス・アシュリーだったはずだが、偽りの弟と再び兄弟ごっこをするつもりというなら、今後はオーウェン・ロゴフと呼んだ方がいいかな?」
「偽りの弟じゃない。エスはまぎれもなく、僕の本当の弟だ」
話の通じない男相手にいちいち言い返すことでもなかったが、鼻につく言い方に、思わず反論がこぼれる。
アーサーは喉をくっくと鳴らして、嫌味っぽく笑った。
「ここ数日のきみたちの様子について報告をもらっているが、兄弟というより、まるで恋人同士のようだったという話じゃないか。きみは男も女もたらしこむのが得意だったはずだが、弟まで体を使ってたらしこんだのか?」
「…………」
感情を制御する訓練を積んでいなかったら、アーサーの胸ぐらを掴んでいたかもしれない。
一瞬だけ頭がカッとなって、怒りで沸騰しそうになる錯覚を覚えたが、オーウェンはかろうじてこらえる。
オーウェンの反応を、アーサーは実に楽しげに眺めていた。
少し離れたところで事の成り行きを見守っているイツキがドン引きしている気配が伝わってきたが、上司の性格の悪さを嫌というほど承知しているイツキは、無闇に口を出してきたりはしない。
「きみはどうだね? エスくん。爆弾により壊滅した、かつてのグランシャリオ本部の前で、お兄さんが絶望に打ちひしがれていた話を、詳しく聞きたくはないかい?」
「……二人きりの時に、兄さんの口から聞くから、いい」
エスは相変わらずクールに、淡々と返している。
「お兄さんは、きみには言わないだろう。あの地獄の中で、きみを探すためだけに、お兄さんが砲弾の下をくぐり抜け、死体の山をかき分けて、他国のスパイにまで媚びを売っていた話なんて」
わざとらしいくらい優しげな声が、残酷に、真実を暴いていく。
「やめろ」
鋭い声をオーウェンは発した。
どうしたら、この不愉快な男の口を封じることができるだろう。やはり殺すべきだろうか、という考えが頭をよぎる。
エスは物言いたげな視線をオーウェンに向けたが、なにも言わなかった。
「一応これでもわたしも協力してあげたんだよ。感謝してもらいたいくらいだね。……でも、夜の相手としてはつまらなかったな。顔が綺麗なだけで、明らかに演技なのがバレバレで。きみの前ではもう少し可愛らしい反応を見せてくれるのかな……?」
「やめろと言っている」
いよいよ殺気を隠しきれなくなってきたオーウェンがおそろしい形相で睨むのにもかまわず、アーサーは余裕の態度で、エスの前髪をいじりだした。
エスは眉ひとつ動かさず、無言だった。
しかし、次の瞬間、アーサーの顔色が変わる。
高級時計をつけた手首をひねりあげられ、背後に回ったエスの腕で、首を締め上げられていたからだ。
オーウェンですら予測しきれないほどの、素早すぎる動きであった。
「兄さんを侮辱するつもりで言っているのなら、許さない」
感情を殺した、冷徹な声が響く。
それは間違いなく、研ぎ澄まされた戦闘能力によって世界の裏側を動かし続けてきた、ハウンドファングとしての姿であった。
エスがその気なら、数秒後にはアーサーの首が折られるであろうことは、武術の心得のある者なら誰でもわかった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
動揺したイツキが駆け寄ろうとするが、エスに睨まれて、動きを止める。
「事と次第によっては、この場にいる関係者全員を殺してもかまわない」
脅しではなく、エスなら本当にやるだろう。
そういう状況は、これまで何度も経験してきたはずだ。
そして彼なら、それができるだけの力を持っている。
アーサーがまともに面を食らっている顔を、オーウェンはこの時、出会ってから初めて見た。
「……悪かった。謝罪しよう。離してくれないか?」
すぐに落ち着きを取り戻し、ゆったりとした口調で話しはじめたアーサーだが、態度からは、先ほどまでの嫌味ったらしい感じは消えていた。
「……エス、もういいよ。こっちに来て」
オーウェンに声をかけられてようやく、エスはアーサーの首にかかっていた力をほどいた。
凶器にもなりうることをじゅうぶんに証明してみせた弟の腕を、オーウェンはそっと抱きしめる。
「そろそろレストランの予約の時間だ。行こう」
「……そうだな」
周囲で待機している局員たちが、アーサーの合図で銃を下ろすのを確認してから、二人は歩き出した。
「なるほど優秀だ。よく躾けられ犬だな」
「犬じゃない。僕の大事な弟だ」
去り際に投げつけられた失礼な声に振り返りもせず、オーウェンは切り捨てた。
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