26 / 33

第26話 ファーストインパクト

 さすがにちょっとはしゃぎすぎた、と自覚したのは、翌朝のことだった。  起きたら全身、特に腰から下が重くて、起き上がることすら億劫に感じられた。  目が覚めたのは七時くらいで、エスはまだ隣で寝ていた。 (……珍しい)  周囲の気配に敏感なエスは、どんなに熟睡しているように見えても、まわりでなにか動く気配があれば、すぐに目を覚ます。  だから、寝顔をじっくりと眺める機会はあるようでないのが日常だ。  しかし今日は、前髪をいじっても、目蓋が上がる気配がない。  はじめての行為に、疲れたのだろうか。薄く開いた口元からは、すこやかな寝息が聞こえてくる。  正確な時刻は覚えていないが、シャワーをすませてベッドに戻ってきたのは多分、二時間前か三時間前ぐらいだ。  オーウェンが明確に主導権を握れたのは二ラウンド目だけで、そのあとはまたエスの好きにさせたり、戯れでいろんな体位を試したりした。  まぁつまり、まさしくセックスを覚えたてのガキのようにはしゃいでしまったのだが、二人とも体力が常人離れしているせいで、引き際を見失ってしまったのだ。  シャワーを浴びにいくときはもうへろへろだった。  ソファでぼんやりしている間にエスがどこかからシーツの替えを持ってきて替えているのは見た記憶があるが、そのあとの記憶が曖昧だ。  もしかしたら、寝落ちしてしまったかもしれない。  遮光カーテンが閉まっているせいで部屋はまだ薄暗いが、常夜灯はつけっぱなしで、寝顔を眺めるにはじゅうぶんな明るさぐらいはある。  綺麗な寝顔だった。  頬の輪郭はすっかり大人の男のそれだが、どこかに幼さが残っている。睫毛は昔のまま長かった。  昔、エスの寝顔を眺めるのが好きで、そのために早起きしていたことがある。  エスが七歳になった頃、いつまでも毎晩べったりくっついて寝ているわけにはいかないと思って別々のベッドで寝るように言い聞かせ、ぐずる弟をなだめて寝かしつけてから自分のベッドに戻っていたことがあったが、あれは辛かった。  たまに一緒に寝ていいかと聞かれた時、すました態度で『いいよ』と言っていたが、実はとても嬉しくて、内心ではワクワクしていた。  森での遊びや訓練に疲れて木陰で休憩していた昼下がり。膝の上で眠ってしまった弟の髪を撫でるのも好きだった。  木漏れ日がエスの頭の上に落ちて、グレーの髪がキラキラ光るのが綺麗だった。  艶のある髪は触り心地がよくて、丸い頭は可愛くて、いくら撫でていても飽きなかった。  あの光景は、あの心地よさは、離ればなれになっている間、繰り返し繰り返し、おそらく何千回も頭の中で再生された。  そうすることで、目の前の絶望感がほんの少し、他人事のように思えた。  今は、古い記憶をたどって、思い出が色褪せないように必死にならなくても、愛しい寝顔が目の前にある。  たまに、自分は都合のいい夢を見ているのではないかという気分にすらなる。 「ん……」  前髪にそっと触れようとしたら、くすぐったかったのか、エスが寝返りを打って、向こうを向いてしまった。  乱れた襟足の髪の隙間から、普段は隠れているうなじが見える。第七頸椎の出っ張りの少し上あたりの手術痕が目に入った。  首のマイクロチップを取り出した時にできた痕だ。時間がたてば痕は目立たなくなる、と医者は言っていたが、今はまだ生々しさが残っている。  ここに、ハウンドファングを管理、洗脳し、支配するためのマイクロチップが入っていたのだ。  オーウェンと一緒に暮らしていた頃はまだ、そんなものは埋め込まれていなかったはずだ。  嫌な感覚が胸の奥からこみ上げてくる。  ――これは、醜い嫉妬だ。 (僕のなのに)  エスを支配するつもりはない。飼い犬のように扱うなんて言語道断だ。  だが、自分以外の者が、彼を支配していたのかと思うと、胸が焼けつくような感情を覚える。  あの時、彼を北側に返さずに南側に連れ帰っていたならそんなものを埋め込まれることはなかっただろう、と思うと余計に心が掻き乱される。  全部、自分のせいだ。  悔しくてたまらない。  早く消えてほしいと願いながら、手術痕に舌を這わせた。 「ん……?」  さすがに気づいたらしく、エスが目を覚ます気配があった。  少し間を置いてから、こちらを振り返って、怪訝そうな顔をする。 「……なにしてる?」 「手術痕、気になって」 「別にもう痛くないから平気だ」 「それはよかったけど、そうじゃなくて」  エスは寝返りを打ち、オーウェンに向かい合う格好になった。 「気になるなら、チョーカーでもつけて隠そうか?」 「それはなんか嫌。首輪みたいだとか言われそうで」 「あんたになら、首輪をかけられてもかまわない」  中途半端に伸ばしていた手を掴まれて、手の甲にちゅっと口づけられる。  色事には慣れていないはずの男なのに、おそろしいほど、さまになる。  急に色気が増したようにも見えて、オーウェンは口元に笑みを浮かべた。 「僕の趣味としては、首輪よりも指輪の方がいいな」 「指輪?」 「お揃いの指輪とかつけてみる?」  エスはきょとんとしたあと、ぱちぱちと目を瞬かせた。 「……ほしい」  抑揚のない声だったが、子供のように素直な返事だった。  思いつきの戯れで口にした言葉だったが、これは絶対買いにいかなければいけないやつだ、とオーウェンは悟る。 「どんなのがいい? 宝石がついたやつ? デザイン性の高い、ゴツゴツしたやつ? それともシンプルに結婚指輪みたいなやつ?」  なんでもいい、とエスは言いかけたようだったが、口を開いたところで思い直したのか、眉根を寄せ、考え込んでいる。 「……あんたの目と、おなじ色をした石がついているのが欲しい」  結果的に差し出された言葉は予想外のもので、オーウェンはくすくすと笑った。 「僕の目の色だと……ブルーレースアゲートあたりが比較的近いかな……? 石の場合は同じ種類でもモノによって色の差もあるし、お店で探した方がいいかもね」 「……うん」 「エスはやっぱり、アメジストかな?」  指先で前髪を持ち上げて、紫の瞳を見つめながら考える。 「オーウェンも、指輪をつけてくれるのか?」 「そりゃあね。お揃いって、そういうものでしょ?」  腕が伸びてきて、抱き寄せられる。  今は服を着ているが、あたたかな体温と、かすかな心臓の鼓動が伝わってきた。  体を重ねた翌日に、寝顔を見て、睦言を交わして、言葉もなく抱きしめられる。  すごく普通のことなのに、とてつもなく幸せなことのように感じられた。 「……ねぇ、気持ちよかったよ」  しばらく無言でくっつきあっていたが、やがてオーウェンから口を開いた。 「そうか……よかった」 「エス、ちゃんと生きてるんだなぁ、と思ってなんか安心した」 「生きてるよ」  離れていた期間は、十二年ほど。そのうち、オーウェン以外の者たちから『死亡したと思われる』とまで判断されていた期間は、八年ほどあった。 生きて、そばにいてくれるだけで嬉しい。 でも昨夜は、それだけじゃなかった。 「きみのはじめての男になれて嬉しいよ」 「…………」 「……僕も、きみをはじめての男にしたかったなぁ。僕が、きみのことを昔からずっと僕の男にするつもりでいたなら、僕の体には誰にも触れさせなかったのに。それだけが、悔しい」  彼にはもっと綺麗なものを差し出したかった。  これでも、二十をすぎてからは言葉と知略と武力だけで人を操作する方法に慣れて、うまく立ち回れるようになったから、色仕掛けを使うことは滅多になくなったのだが、まだ未熟だった若い頃は、使える手段ならなんでも使うしかないと思っていたのだ。  いま思い出しても、虫唾が走る。 「……ファーストキスなら、オレがもらった」 「え……?」  ぼそりと吐き出された声は小さく、最初、聞き間違いかと思ったほどだ。  しかし、聞き間違いではなかったようで、エスはさらに続ける。 「オレと出会う前に経験があるなら話は違うことになるが……」 「待って、いつの話してる?」  距離が近すぎて顔が見えなかったので、少し体を離して顔を見る。  エスは、珍しく気まずそうな表情を浮かべていた。 「確か、兄さんがミドルスクールに入って少したった頃ぐらいだと思う」  ということは、オーウェンはだいたい十二歳ぐらいで、エスは七歳ぐらいの頃か。 「事実だとしたら、それは間違いなくファーストキスだね。……僕は覚えてないんだけど」 「兄さんはあの時、寝てたから」 「もうちょっと詳しく状況を教えてくれる?」  エスはあんまり言いたくなさそうな雰囲気だったが、しぶしぶ口を開いた。 「学校の校外学習かなにかでいつもよりも帰宅が遅くなって、帰ったら兄さんが制服姿のままソファでうたた寝してて……寝顔が綺麗だな、と思って、それで、なんとなく……」  きっと、そういう年頃だったのだろう。  学校のクラスメイトたちも、一部の者たちは色恋を意識し出すような時期だったのかもしれない。テレビにたまに出てくるラブシーンの意味がわかるようになってくる時期だったのかもしれない。ついこの間まで同じ学校に通っていたのに、オーウェンだけ上の学校に進級し、なにか思うところがあったのかもしれない。 「……全然、気づかなかった」 「先に、兄弟としての一線を踏み越えたのはオレの方だ。悪かった」 「あははははは」  オーウェンは笑った。こんなに屈託なく笑うのはいつ以来だろう。  心の底から申し訳なさそうにしているエスには悪いが、オーウェンとしては、こんなに愉快なことはない。  この男は、オーウェンの後ろめたさも、罪悪感も、後悔も、いつも鮮やかに蹴り飛ばしてしてくれるのである。 「ごめん。もしかして、初恋泥棒しちゃった?」 「……今さらだろ」 「エスがあんまりにも可愛いから、朝から抱いてもらいたくなっちゃった」 「ダメだ。そろそろ支度して、朝食を食べに行った方がいい」  頬に指を伸ばしたが、つれなく逃げられてしまった。  そのわりに、先に起き上がったあと、エスが気遣わしげにこちらを見下ろしてくる。 「あんた、起き上がれるのか?」 「んー、ちょっとしんどいから、抱き上げてバスルームに連れていってくれる?」  シャワーは寝る前にも浴びたが、このあと長時間のフライトが控えているなら、チェックアウトの前にシャワーを浴びてすっきりしておいた方がいいだろう。  伸ばした腕は、今度は拒まれることはなく、望み通り抱き上げられて、脚が宙に浮く。 「仰せのままに、お兄様」  遠慮なく甘えるようになった兄に、恭しい言葉がさらりと告げられた。  弟の逞しい腕に身を任せながら、オーウェンはまた喉を鳴らす。 「いいね、それ。すごくそそるよ」  首筋に唇を寄せながら、甘い声で囁いてやった。

ともだちにシェアしよう!