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第29話 海
「海、怖くないの?」
港の倉庫の影に身を潜め、びしょびしょになった服の裾を絞りながら、ふと気になって問いかけてみた。
「どうして?」
濡れた前髪を掻き上げながら、エスが問い返してきた。
オールバック風の髪型になったせいでワイルドさが増し、いつもとは雰囲気の違う男前ぶりを見せている。
「昔、溺れて死にそうになったって」
「ああ」
「それに、僕たちが別れたのも海の上だ。海にはあんまりいい思い出がないだろう?」
海水で冷たくなった指が伸びてきて、オーウェンの乱れた髪を整え始める。
「そうだな。……でも、溺れて死にそうになったあと、海面に顔を出したら空がちょうど明るくなり始めたところで……綺麗なブルーグレーだった。それを見て、なぜだか懐かしい気持ちになった」
前髪に触れる指先がくすぐったくて、オーウェンは少し笑った。
長い指は次に、オーウェンの下目蓋にそっと触れてくる。
「あんたの瞳の色だった」
思わずドキリとさせられるような、真剣な眼差しだった。
「だから、そんなに悪い思い出ばっかりでもない」
「……今度は水着に着替えて、普通に海水浴したいよね」
「そうだな」
頬を撫で、軽くキスをする。唇も、海水で冷たくなっていて、しょっぱかった。
そこでオーウェンは、血の匂いに目を細める。
「怪我してる?」
「少しかすっただけだ」
前に怪我した時も同じようなことを言っていたので鵜呑みにするわけにはいかない。
シャツをめくって確認する。
左胸の下あたりに、切り裂かれたような傷があった。
「……傷のまわりが、紫に変色してる。毒が塗ってあったのかもしれないね」
「耐毒訓練を受けているから、たいしたことにはならないと思うが……」
「……そこに座って」
エスが反論するはずもなく、コンテナにもたれかかるようにして腰をおろした。
服から水滴がしたたり落ちてくるのが邪魔だったので、上の服を脱ぐよう指示をした。
清潔な水ですぐに洗い流したいところだったが、水道らしきものが周囲に見当たらないので、ひとまずエスの前に膝をついたオーウェンは、傷口に舌を這わせた。
「……っ」
エスが軽く息を呑む。
舌先に、血の味と塩水の味と、それから、ピリピリするような得体の知れない薬品の味が広がった。
毒らしきものはひととおり吸い出したあと、唾液と一緒にそこらへんに吐き出した。
「……兄さん、もういい」
エスは落ち着かなさそうな顔で、オーウェンのやることを見守っていた。
昔、彼がまだ泣き虫の子供だった頃を思い出すような表情だった。かわいい。
「念のため、ね」
オーウェンは自らの親指に歯を立てて噛み切った。
溢れ出した血を、傷口に塗り込む。
「……やめてくれ。あんたが血を流すところなんて見たくない」
「どう? 気持ち悪い?」
「いや……あったかい、気がする」
オーウェンは微笑み、再びキスをした。
冷え切っていたはずの唇は、さっきよりもあたたかみを取り戻していた。
海の近くにある観光客向けの店で着替えを手に入れ、新しく手配した車に乗り込む頃には、エスの傷はほとんど塞がり、紫に変色していた肌は元の色に戻っていた。
トルネシアで散々買い込んだ土産を、空港から別便で送っていたのは幸いだった。おかげで車ごと海に沈めずにすんだ。
橋の方では、警察やら軍が集まって調査と事後処理をしているようだったが、素知らぬ顔で街を出る。
「……すまない。オレのせいで、面倒事に巻き込んで」
車が山間部に差し掛かったところで、エスが重々しく口を開いた。
「きみをグランシャリオから強奪したのは僕だからね。僕が起こした面倒事だよ」
土産物屋で買ったジュースをエスに押しつけ、さらりと答えながらも、ふと、オーウェンの胸になにかが引っかかった。
「ところでさっき、あのヴォルクがきた時、なにか言いかけてたよね。バルトロノアは多分……の続きは?」
「ああ……」
缶に入ったジュースを一口飲んでから、エスが遠くを見る眼差しをする。
「たいしたことじゃないんだ。ただ……オレは昔、死にかけたバルトロノアの命を救ったことがある。それでやつに気に入られて、親衛隊に入っていたことがある」
「……その、バルトロノアの命を救ったっていうのは、いつの話?」
「さっきの、海で死にかけた時の話だ。あれは、ルビリオの拠点を追われて、逃げている最中だった。船が空爆されたのは、船にバルトロノアが乗っていたからだ」
「…………きみがすぐに救助されたのも、もしかして、バルトロノアがそこにいたから?」
海上のど真ん中で死にかけたハウンドファングをわざわざ救助するために船やヘリを出すほど、グランシャリオは情に厚くない。
よく考えれば、簡単に想像がつく状況だった。
「そうだ。……すまない。オレがあの時バルトロノアを見殺しにしていれば、世界のためにはなったかもしれないな」
「見殺しにしてたら、多分きみも救助されなかったか、あとで殺されたかのどっちかだよ。仕方ない」
エスが死ななくて、本当によかった。
罪悪感など背負ってほしくない。
とはいえ、バルトロノアが死んでくれた方がよかったというのも事実であり、なによりオーウェンにとっては、個人的におもしろくない話ではあった。
「あのおっさん、感激してきみに感謝の言葉を言ったりしたの?」
「ああ。バルトロノアにあんなに褒められたのははじめてだった」
「……そう。頭とか撫でられたりした?」
想像しながら、ムカついてきた。
しかし気になって、つい詳細を確かめたくなってしまう。
「頭は撫でられなかったが、温かい食事をもらった。それからしばらくの間、身辺警護を任されていたから、屋根があってあたたかい場所で寝ることを許された」
「……一応聞くけど、ベッドの相手を命じられたことはないよね?」
バルトロノアはバイセクシュアルであるという噂を聞いたことがある。
飼っていたハウンドファングに手を出していたという話は聞いたことはないし、薬で性欲を喪失させていたぐらいだから可能性は低いと思うのだが、念のための確認である。
エスは不思議そうな顔をしたあと、考え込む仕草を見せたが、やがて首をひねった。
「性的な意味での接触はなかったと思う。あの男にとってのハウンドファングは、あくまでも『人殺しのための道具』だ。銃器を並べるように優秀な犬を並べ、自分の力を誇示して満足していただけだ」
「……そう」
どっちにしろ最低野郎であることにかわりはなかった。
「でも、きみは昔から、バルトロノアのお気に入りだったよね。潜入任務のついでとはいえ、わざわざ僕に教育を依頼したぐらいだ。期待されてたんじゃないかな」
興味がないものに対しては徹底的に冷酷なあの男のことだ。特別扱いされていたといっていいだろう。
「多分、オレの目の色が気に入っていたんだと思う。オレの目を見てよく、『その色は特別なものだ』と言っていた。どうやら、紫の瞳を持って生まれた者は特別な潜在能力があると信じているようだった」
「……なるほどね」
迷信に近い話だが、事実として、エスはオーウェンが教育を施す以前から優秀な子供だったし、今もとても優秀だ。
「おもしろくない話だけど、きみを見つけてきたのは、バルトロノアだった。おまけに、あいつからすればきみは、祖国がなくなって窮地に立たされた時にそばでずっと守ってくれた忠犬だ。あいつがきみを取り戻したいと思うのは……当然の話なのかもしれない」
「……オレは、戻りたいとは思っていない」
「わかってるよ。でも……きみは最初からバルトロノアの所有物で、きみを個人的にどうこうできる権利なんて、僕にはこれっぽっちも与えられていなかった。僕が勝手にきみに執着して元の所有者から奪おうとした、というのが客観的な状況だ。略奪者は……僕の方だ」
『弟を返せ』と、ずっと呪うように思い続けてきた。
しかし、そもそもその兄という立場すら、期間限定でバルトロノアによって与えられた、仮初めのものだったのだ。
冷静に考えたら、恥知らずはオーウェンの方だ。頭が痛くなってきた。
「違う。あんたにはじめて会った時から、オレの心はあんたのものだ」
即座に断言されて、オーウェンは言葉に詰まる。
「オレに『心』を持つことが許されるなら……そう信じてもかまわないだろう?」
まっすぐな、迷いのない眼差しで告げられ、ジュースの缶が返される。
いつの間にか、口の中が渇ききっていた。
勢いで半分ほど飲み干して、長い息を吐く。
「ごめん。変なこと言った」
「かまわない」
そっけなく聞こえる言葉だったが、それがエスの寛容さの表れであることを、オーウェンは知っている。
「……エスってさ、絶対、たらしの素質があるよね」
「そうか? だとしたら、兄さんに似たんだろ」
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