8 / 58

【二】青羽―ヴァイキングに囚われて①

 開いたウールコートの内側に抱き込まれ、硬い腹筋が密着した。 「そろそろ俺を恋人にしてくれないか?」  耳に囁かれて身体が震えた。恋人。セフレじゃないのか?  唇が触れたので、慌てて手を差し入れた。 「あ、汗で汚いよ」 「俺の家で風呂に入ればいい。それから返事を聞かせてくれ」  チュ。チュ。 「風呂……返事……」  頬にキスを落としてから、ママチャリを脇に抱えたイケメンが駐車場の奥へと進んでいった。そちらはビルが隣接していて行き止まりのはず。ところがホテルの壁にシャッターが設置されていて、横の鉄製扉の鍵を開けて社長が入ってしまった。  ちょ、俺のママチャリ~、カムバッ~ク!  急いで扉をくぐると、中には黒い大型ワゴン車が駐車していた。 「俺、帰らなきゃ」 「後で自転車ごと送っていくよ」  雪がチラつき始めていたので魅力的な申し出だった。ワゴン車の横には見たことのないエレベーターが現れ、気づけば二人で上昇していた。階数のボタンは一、二、六階しかない。  ポーン。 「さあどうぞ」  踏み出した床はおそらく大理石だろう。玄関扉を開けた水上社長に背中を押されて中へ入る。ふわふわのスリッパに履き替えて白い扉をくぐれば、インテリア雑誌さながらの高級お洒落さんルームが現れた。青いソファー、繊細な彫刻が施されたコーヒーテーブル、巨大なテレビの置かれた、壁一面のリビングボード……。壁紙を鑑賞する余裕もなくバスルームへ案内されていく。 「すぐにお湯が溜まるから身体を洗うといい。着替えは用意しておくよ。さあ、気持ちいいぞ。さっぱりしておいで」 「あれ、このお風呂見たことある」 「スペシャルルームの浴槽だ」  全面ガラス張りの扉と壁は、ワイパーで水滴を取るのが大変なんだよなぁ。社長は自分で掃除するんだろうか……。ホテル備品と同じ使い捨てのボディースポンジを泡立てて、汗だくの身体を擦る。シャンプーやボディーソープは、明らかにホテルの大衆消耗品じゃなかった。値が張るオーガニック製品だろう。自分が愛用してるモーモー石鹸よりも甘くて、清々しい草原の風を連想させる。そう、水上社長の匂いだ。さっぱりとしたところで並々と張られた湯の中へ身を沈めた。 「はぁぁ〜、気持ちいい〜」  ジャグジーのボタンを見つけて、ワクワクしながら押した。  ボコボコボコボコボコボコボコ。 「うわぁぁ〜、最高!」  Wワークの疲労を取り去って行くぜ〜。 「それはよかった」 「わぁ!」  ガラス戸を開けて歩いてきたバイキングは、はち切れんばかりの胸元が覗くバスローブ姿だった。その筋肉を分けてくれ〜。 「ほら。水分も取りながら、ゆっくり浸かるといい」  ミネラルウォーターのボトルを開封してからよこされた。筋肉マッチョなのにジェントルだな〜。てっきり、お湯に入ってくるのかと思ったぞ。 「ありがとうございます」 「仕事中じゃないから、かしこまる必要はないよ」  ボトルを飲む俺を、浴槽の縁に腰掛けて見つめてくるイケメンの眼差しが、なんだか熱くて怖い。 「髪……」 「え?」 「髪を伸ばすのか?」 「あー……切るお金がないだけ。来月には、さっぱりしてくるよ」  髪は、冬だから許される肩すれすれの長さだ。そんなにみすぼらしかったかな。 「このまま伸ばしたらいい。梳いて、邪魔な時は結べばいいさ」 「水上社長みたいに?」 「(とおる)だ」 「親しくないのに、名前でなんか呼べないよ」 「恋人にしてくれれば、親密になるさ」 「出会って一週間も経ってないよ」 「これから知り合えばいい」  社長が身をかがめて俺の頬を撫でる。その指先が優しくて、なんだか頭がぼうっとしてきたぞ。 「俺経験ないから、つまんないと思うけど……」 「それはいいな。で、返事は?」  社長は真夏の直射日光並みの眩しい笑顔を浴びせた。瞳は赤い髪の色彩を吸い込んで炎と化している。な、何がいいんだ? 「だめだよ」  途端に青ざめるヴァイキング。赤い髪とのコントラストにギョッとした。 「なぜだ?」 「返事は風呂から上がってからだろ。それにさっきのキスがまだ……」  ザババーッ。  腕を引き上げられて身体が社長の胸に密着する。驚いて開けっ放しの口に傲慢な舌が差し込まれた。身体を這い回る両手に揉みしだかれて、足から力が抜けていく。  そう、これだよ。想像していた通りのキスだ。  こすりつけられた髭は俺の髪よりもずっと柔らかくて、くすぐったい。まるで大型犬にじゃれつかれてるみたいだ。結んでいた紐が解けてカーテンのように広がる赤毛は、まるで荒波のよう……。  出会った翌日にキスされて驚いたけれど、どうやら俺以外の人間に関心を示さない彼が嬉しかったのだ。  キスの回数を覚えていたのも、それを反芻して秘かに股間が堅くなったのも、俺が水上社長について考えることを止められなかったから。女性達が社長へかける甘ったるい声は、俺を落ち込ませた。ぐるぐると胃の中で渦巻く不快感は【嫉妬】だと悟り、愕然とした。  俺のものでもないのに。

ともだちにシェアしよう!