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【七】ナナ―さよなら、青羽兄ちゃん①
「下田奈々ってあんた?」
険のある口調に振り向くと、マンションのエントランスに若い女の子が仁王立ちしていた。わぁ、顔も仁王様だよ……。
「馬鹿いってんじゃないわよ! マッキーの赤ちゃんは私が産むんだから。あんたはサッサと消えなさいよ!」
「マッキー……もしかしてマキオさんのこと? プッ」
三十半ばの親父にマッキーって。王子様も無理だったのに。
「うるさい、笑うな!」
「ねえ、もしかしてあの人と結婚するつもり?」
「当たり前じゃん。無事に生まれたら私と結婚してくれるんだから」
ああ、この子は夢物語を吹き込まれたのか……。
「彼は離婚しないよ。赤ちゃんが男なら、奥さんの子にするんだよ。女の子なら養子に出すって。認知なんか期待しても無駄だよ。お金だけにしなよ」
「なにいってんの。あんた、お腹の子をあげる気?」
「ねえ、お腹の子は男の子?」
「……先生が楽しみに取っておきたいって、教えてくれないんだ」
茶髪を染めるのを止められてプリンになったその子は、騙されていると気づき始めた。それでもまだ偽物の愛情にしがみつこうとしている。
「……あたしは男の子だよ。教えてもらえないなら、女の子だと思う」
「馬鹿言わないでよ!」
あたしよりも膨らんだお腹が、ユサユサ揺れながら迫ってくる。避けるには遅すぎた。 ドン!
ドサッ。
「うう……」
お腹が痛い。ダメだ、まだ出産予定日までひと月以上ある。お願い、赤ちゃん。こらえて!
最初は、あたしにも白馬の王子様がいたんだなって思ったんだ。ちょっとオッサンだったけど、そこそこイケメンだし、お洒落だし、デートもすっごくゴージャスだった。出会って直ぐホテルに行きたがる高校生とは大違い。あたしのことを本気で大切にしてくれてるんだって勘違いしちゃったんだ。それくらい演技が上手くて、巧妙で、ずるい大人だった。本性に気づいたのは、駅前の一流ホテルで結ばれて、避妊を一切しなかったのにピルを勧めなかったから。
「奈々、君をひと目見たときから愛してしまったんだ。私の子供を産んで欲しい」
プロポーズだって思うじゃん。百パーセントそうじゃん。でもこのご時世、スマホがあれば、王子様にはお妃がいるんだってバレるわけ。
「妻とは別れる。跡取りを産んで欲しい」
って説得されて産む気になったけど、彼のスマホを調べたら出るわ出るわ。囲った女が全部で五人。マジか。あんた絶倫王なのか。問い詰めたら開き直るから、男の子なら奥さんの子にしていいよって約束した。だって、あたしよりハイソな人間が育てれば、きっと赤ちゃんも立派な大人になれる。貧乏が辛かったり、倫理観ゼロの母親に絶望なんてしない。
お腹の赤ちゃんは、きっと幸せな未来が待ってるはず――。
プルルルル。
「……ただいま、電話に出ることは出来ません……」
入院した日に話したきり、彼は電話に出ない。お腹の子供が男の子だなんて嘘。性別はあたしもわかんないんだ。情が湧かないように知らないままがいいだろうって、馬鹿マッキーが偉そうにウンチク垂れてた。そう。本当はあたし、あんな医者なんか愛していない。青羽兄ちゃんに縋って生きるのが申し訳なくて、貧乏が憎くて、働くのが億劫で、努力が大嫌いで安易なエセ王子に飛びついただけ。ああ、こんな人生と自分が嫌だ……。
青羽兄ちゃんごめんね。でも羨ましいよ。超絶外人イケメンが、青羽兄ちゃんに夢中だもんね。うん、わかるよ。青羽兄ちゃんはあたしやろくでなしの母さんを養ってくれた天使なんだ。さっさと金持ちに囲われたあたしに怒りもせず見送ってくれた。病院にも駆けつけて、まだ心配してくれる。どんだけお人好しの善人なんだろ。だからだね、あの怒れる赤毛のギリシャ戦士に愛されるのは。そう、彼はきっと青羽兄ちゃんを愛してる。愛を知らないあたしでも感じるよ。
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